樽熟成に大きく投資することで、モルトウイスキーの品質を向上させたタムナヴーリン蒸溜所。世界的なマスターブレンダーとともに、スペイサイドの新たな歴史を作ろうとしている。 文:ガヴィン・スミス ホワイト&マッカイのインターナショナルモルト部門を率いるクリスティーン・ビーストンによると、タムナヴーリンのスピリッツはすべてファーストフィルのバーボン樽で熟成されるのだという。 「リッチでまろやかなだけでなく、クラシックなスペイサイドモルト特有の甘味や優美な味わいを表現するのが目的です。そしてホワイト&マッカイでもっとも幅広い層にアピールできる味わいにしたいという思いから、シェリー樽でフィニッシュすることにしました」 タムナヴーリンの醸造担当者、サム・ダグラスも付け加える。 「蒸溜所内に貯蔵庫が2軒ありますが、ほとんどの原酒はホワイト&マッカイのインバーゴードン蒸溜所(グレーン)にある貯蔵施設に運ばれてからシェリー樽で後熟されます。この後熟の期間は6ヶ月から1年間ほど。6ヶ月で十分な場合もあれば、もっと熟成が必要な場合もあってまちまちですね」 シングルモルトウイスキーのブランドとしては、まだ成長期にあるタムナヴーリン。品質向上の鍵となるのが、樽の移し替えプロジェクトだったとサム・ダグラスは振り返る。 「2015年以来、全部で樽4万本ほどある熟成中の原酒のストックから、7,000本強の移し替えを実施してきました。ファーストフィルのバーボン樽ではなかった原酒を、すべてファーストフィルのバーボン樽に詰め替えたのです。以前は疲れ果てたような感じの原酒もありましたが、今ではウイスキーの品質もはっきりと向上しています。樽詰めに使用しているファーストフィルの樽が、非常に高品質なものなのです」 クリスティーン・ビーストンは、さらに重要な設備投資についても教えてくれた。 「2007年に蒸溜所を再開する前、スピリットスチルの形状を変更したんです。首を短くして、どっしりした形にしました。これはより重厚でリッチなウイスキーをつくり、フレーバーに深みを加えるための措置でした」 現在、タムナヴーリン蒸溜所は8人のオペレーターで運営している。貯蔵庫担当はサム・ダグラスと蒸溜所長のガレス・モーガンの2人だ。サム・ダグラスが自身の経歴について説明してくれた。 「ウイスキー業界に入ったときは、まったく正反対の仕事に関わっていました。ケースに入った商品を、ディアジオの海外市場向けに発送する業務です。でもウイスキーづくりへの興味が本当に高まって、スペイサイドに出向させてもらいました。ウイスキーづくりに関わる人たちの並々ならぬ熱意に惹かれたのです。世界にこんな美しい世界があるのかと感動して、スペイサイドに留まる決心をしました。ホワイト&マッカイの仕事に出会う前は、別のウイスキー会社やビール醸造所でも働きました。タムナヴーリンに来てもう2年になります」 シェリー樽やワイン樽の後熟で新境地を開拓 タムナヴーリンの未来は、明るく開けている。クリスティーン・ビーストンによると、ビジターセンターを再興する計画があるようだ。かつてタムナヴーリン蒸溜所のビジターセンターは、蒸溜所の近くにある歴史的なミルハウス(粉砕棟)の一角にあったのだという。そしてまた新商品の発売に向けた準備も進んでいる。 「スペイサイドフェスティバルまでに、新商品を用意しようと計画しています。名前は『タムナヴーリン シェリーエディション』になるでしょう。他にもまだまだ計画はありますが、とにかくお求めやすい価格で高品質のウイスキーをお届けできるように頑張っています」 マスターブレンダーのリチャード・パターソンによると、「タムナヴーリン シェリーエディション」はヘレスにある3つの樽工房から調達したシェリー樽で後熟したウイスキーである。このシェリー樽にはアメリカンホワイトオークとヨーロピアンオークの両方を使用し、オロロソシェリーでシーズニングしたものである。原酒の仕上がり具合によって熟成期間が変わるので、熟成年を表示しないノンエージステイトメント商品になっているが、決して若いウイスキーではない。スペイサイド産のシングルモルトらしいエレガントな特性があり、レーズン、サルタナ、イチジク、リコリス、マジパンなどの風味を表現する。いずれもオロロソシェリー由来の優美な特徴だ。シェリー樽の後熟で、クラシックなスペイサイドのスタイルが贅沢に進化した味わいである。 さらにリチャード・パターソンは、タムナヴーリンに赤ワイン樽の熟成がよく合うと断言している。昨年の夏には「テンプラニーリョカスクエディション」がトラベルリテール商品として発売された。このような経緯を踏まえて考えると、今後のタムナヴーリンのリリース予定に赤ワイン樽でフィニッシュした商品が含まれている可能性は極めて高いだろう。 クリスティーン・ビーストンが今後の展望を語る。 「タムナヴーリンはブレンデッドウイスキーの原酒としても重宝され、プライベートラベルのボトリングもよく売れています。でも私たちは、これからオフィシャルのシングルモルトウイスキーとして積極的に売り出したいと考えているのです。シングルモルトウイスキーとして有名になり、スペイサイドのおすすめ銘柄のひとつに数えられるよう今後も頑張っていきます」
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スペイサイドのダークホース、タムナヴーリンに注目【後半/全2回】
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スペイバーン蒸溜所を訪ねて【前半/全2回】
約120年前、名匠チャールズ・ドイグが設計したスペイバーン蒸溜所。豊かな味わいの秘密を探るため、ガヴィン・スミスが激動の歴史をたどる2回シリーズ。 文:ガヴィン・スミス スペイバーン蒸溜所は、ビクトリア朝ウイスキーブームの熱気に乗って創設された蒸溜所のひとつだ。だが熱気という言葉は、あまり相応しくないのかもしれない。なぜならスペイバーンで最初のスピリッツが流れ出したのは、12月中旬の吹雪の日だったからだ。しかもまだ母屋の蒸溜棟が完成前だったので、ドアも窓も付いていない吹きさらしの状態で創業したというから驚きである。 そんなに慌てて蒸溜した理由は、蒸溜所が建設された年と関係がある。1897年はビクトリア女王の治世60周年を祝う「ダイヤモンド・ジュビリー」にあたる年だった。スペイバーン蒸溜所の創設者たちは、記念年が終わってしまう前に何とか蒸溜をおこない、特別な記念ボトルを発売したいと焦っていたのである。 ジョン・スミス蒸溜所長が見守るなか、生産担当の工員たちは吹きすさぶブリザードのなかで悪戦苦闘しながら業務を敢行。その結果、バット1本分のスピリッツを蒸溜して1897年のうちに何とかボトリングまで漕ぎ着けたという逸話が残っている。 19世紀最後の10年は、スコットランドのウイスキーづくりにおけるスペイサイドの地位を決定づけた時期だった。理由は原料の大麦がふんだんにあったこと、便利な鉄道網によって南方の消費地と結ばれていたこと、意欲的なブレンダーたちがしのぎを削っていたことなどが挙げられるだろう。エレガントで、フルーティで、あからさまなピート香のない酒質も当時の人々の嗜好に合っていた。19世紀最後の10年に、全部で24軒もの蒸溜所が新設されたのは象徴的な記録である。 有名なキルンを設計したウイスキー界の名建築家 スペイバーンは、スペイ川支流のグランティ・バーン沿いにある小さな谷に建設された。ロセス村の外れにあたり、エルギンから南に15kmほど離れた場所だ。蒸溜所を設計したのはチャールズ・ドイグである。当時ドイグはエルギンを拠点に活動しており、中国の仏塔を思わせるキルン(窯の煙突)のデザインがトレードマークだった。このキルンの先端構造は、かつてドイグ式換気装置と呼ばれていたほどである。スペイバーンでも同様の換気装置を設置し、圧縮空気を利用したドラム式製麦機を導入した。この形式の製麦機がスコットランドのモルトウイスキー蒸溜所で採用されるのは初めてのことだった。 スペイバーン蒸溜所の操業は、グラスゴー在住のブレンダーたちやウイスキー商のジョン・ホプキンス社に委託されていた。ジョン・ホプキンス社は当時すでにトバモリー蒸溜所も所有しており、スペイバーン蒸溜所の建設には17,000英ポンドが費やされた。新しい工場はスペイバーン=グレンリベット・ディスティラリー社の支援のもとで運営されることになった。 1916年、買収に熱心なディスティラーズ・カンパニー社(DCL)がジョン・ホプキンス社を傘下に収める。これによって、スペイバーンはDCLのさまざまなブレンデッドウイスキー用にモルト原酒を供給するようになった。シングルモルトとしてのスペイバーンの知名度は低く、「フローラ&ファウナ」の名で12年ものがひっそりと売られているだけだった。 1991年にインバーハウス・ディスティラーズ社が蒸溜所を買収し、その翌年には「フローラ&ファウナ」に代わって10年熟成の商品が発売され、販売地域も少し広がることになった。それでも生産するモルト原酒の大半は、引き続きブレンデッドウイスキー用の原酒として使われていた。特にスペイバーンを重用していたのが、豪華なパッケージで知られる「ピンウィニー」。主に米国で販売されていたウイスキーである。 インバーハウス・ディスティラーズは、1964に北米のパブリッカー・インダストリー社の子会社として設立された企業である。スペイバーン蒸溜所を買収した後も、プルトニー蒸溜所、ノックデュー蒸溜所、バルメナック蒸溜所を次々に買収した。 2001年にはパシフィック・スピリッツがインバーハウスをわずか85ドルで購入し、そのわずか5年後にはインターナショナル・ビバレッジ・ホールディングス社がパシフィック・スピリッツを買収した。すでに幅広いスピリッツとビールのブランドを保有していた同社は、ここでようやくスコッチウイスキーをポートフォリオの一角に追加することができた。 2009年になると、スペイバーンの新しいボトルが発売。年数表示のない「スペイバーン ブラダン オラック」だ。これでシングルモルトは「スペイバーン 10年」と「スペイバーン ブラダン オラック」の2本立てになった。「ブラダン オラック」という名は、ゲール語で「金色のサーモン」を意味する。スコットランドで最高のサーモンが遡上してくるスペイ川を称えたネーミングだ。 (つづく)
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スペイバーン蒸溜所を訪ねて【後半/全2回】
高品質でお手頃なシングルモルトとして、英国と米国で特に人気の高いスペイバーン。蒸溜所の設備も強化し、トラベルリテール市場でも世界規模の戦略を展開している。 文:ガヴィン・スミス スペイバーンは、長らく米国で特に人気の高いシングルモルトとして知られてきた。これは主にインバーハウスの親会社だったパブリッカー・インダストリー社が販売に力を入れたおかげである。スペイバーンのグローバルブランドアンバサダー、ルーカス・ディノヴィアックはこう語る。 「スペイバーンが力を入れている市場は、英国、米国、そして世界中のトラベルリテール。実はつい最近になってトラベルリテール限定コレクションの発売を開始したばかりです。スペイバーンのユニークな味わいと品質の一貫性は、世界中のファンを獲得してきました。手に余るほどの素晴らしい賞もいただいています。スペイバーンは高品質のウイスキーですが、いつもお手頃な価格が設定されてきました。これが多くの消費者に愛される理由なのです」 ルーカス・ディノヴィアックは、さらに豊富なコレクションの内容についても教えてくれた。 「英国で販売している中核的なコレクションは、『ブラダン オラック』、『10年』、『15年』、それにいちばん新しく追加された『18年』です。『18年』はアメリカンオーク樽とスパニッシュオーク樽で熟成されました。世界のトラベルリテール市場では、『ホプキンス リザーブ』、『10年』、『16年』という顔ぶれになっています。米国で販売しているのは 『ブラダン オラック』、『10年』、『アランタ カスクス』、『コンパニオン カスク』、『15年』、『18年』です」 「ホプキンス リザーブ」は、蒸溜所の設立者であるジョン・ホプキンスを称えたボトル。スモーキーで柑橘風味があり、甘く長い余韻が特徴であるという。また「アランタ カスクス」はファーストフィルのバーボン樽のみで熟成され、「コンパニオン カスク」はバッファロートレース蒸溜所の樽で熟成されている。 大規模な投資で需要に応える 現在のスペイバーンで蒸溜所長を務めるのはボビー・アンダーソン。1980年代にミルトンダフでウイスキーづくりのキャリアを開始した人物だ。かつて祖父がミルトンダフで蒸溜所長を務めていたのだという。シーバスブラザーズが所有するグレントファースとグレンバーギでの勤務も経て、スペイバーンにやってきたのだと教えてくれた。 「ここ何年かの間に、蒸溜所では設備をかなり新調しました。大掛かりな投資によって、生産量は125%も増大しています。新しいマッシュタンやモルトビンを加え、スピリットスチル1基とスチール製のウォッシュバック数槽を追加しています。業界最先端のエネルギー回収システムも採用して、エネルギー使用量を約20%も削減しました」 設備の増強だけでなく、スペイバーンはスピリッツの特性に影響を与えそうな改革も大胆におこなっているようだ。 「蒸溜のサイクルを詰め込みすぎないように、発酵時間を伸ばしました。これによってウォッシュの一貫性がさらに均等に保たれるようになり、スピリッツの収率も最適化されています。ウイスキーの特性は以前とほぼ同じですが、エステル香が高まったという感想も聞こえてきますね」 原料の大麦は主にコンチェルト種。糖化はセミロイター式のマッシュタンを使用し、1回6.25トンのマッシュを週に27セット作る。発酵は容量各27,000Lのステンレス製ウォッシュバックが15槽で、同容量の木製のウォッシュバックも4槽ある。発酵時間は72時間だ。蒸溜設備は容量27,000Lのウォッシュスチルが1基と、容量12,500Lのスピリッツスチルが2基。コンデンサーは今や圧倒的な少数派となった蛇管型である。年間生産量は、純アルコール換算で約450万Lだ。 伝統的なフロアモルティングとは異なり、省スペースのドラムモルティングは蒸溜所の生産量拡大に寄与してきた。スペイバーンのように手狭な蒸溜所にあっては、生産力を上げるのに重要な意味を持つ。 スペイバーンにある6台のドラムは、濡れた穀物を入れるとマット状に絡みつかないうちにすぐに回転させる。同時に湿気を含んだ涼風をポンプでドラム内に送りながら、ちょうどよいレベルに大麦が発芽するまで待つ。スペイバーンのドラムからは毎週30~40トンの大麦モルトが生み出される。フロアモルティングとは異なり、年間の一貫性を重視するため慎重に温度を調整している。もともと製麦には蒸気を使っていたが、1940年代に電化された。 ドラムモルティングは1968年まで続いたが、ディスティラーズ・カンパニー社が当時最先鋭の大型製麦工場をバーグヘッドに建設した。バーグヘッドはエルギン北西のマレー湾沿いにある。この工場で、傘下の蒸溜所が使用するモルトが作られたのである。ドラムモルティングは現役で活躍しており、文化保護を目的とした政府機関「ヒストリック・スコットランド」の支援を受けている。ウイスキー蒸溜の生きた遺産だからだ。 そしてボビー・アンダーソンは最後にこんな逸話も教えてくれた。 「最近リリースした『スペイバーン18年』は、店舗で人気の商品となっています。もちろん通年商品で、英国と米国で展開するコレクションの中核に位置づけられる商品です。最初にボトリングしたタイミングが、たまたま私の蒸溜所での勤続18年のタイミングにあたりました。それでスペイバーンは、最初に瓶詰めされたボトルを私に譲ってくれたんですよ!」
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アロハ・スピリッツ:ハワイのクラフト蒸溜所(3) アラワイ
ハワイのクラフト蒸溜所を巡る旅も、いよいよ最終回。シリーズを締めくくるのは、ホノルルにある正真正銘のマイクロディスティラリー「アラワイ・ウイスキー」だ。 文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン ホノルルをよく知っている人なら、ウイスキーに「アラワイ」という名前を選んだことを不思議に感じるかもしれない。アラワイはワイキキの北にある運河の名前でもある。澱んだ運河の水は、遊び場としても飲み水としてもおすすめできない。 それでも「アラワイ」にはハワイ語で「水路」という意味があるのだという。創設者のジェイクことジェイコブ・リーは、そんなイメージに惹かれてこの名前を採用した。 初めてジェイクに会ったのは、ホノルルで開催されていたウイスキーのテイスティング会だった。その日、ジェイクはテイスティング会で最新の商品をお披露目していたのである。 ジェイクの本業はレストランやバーのコンサルタントで、ケンタッキー旅行から帰ってきたばかりだった。ケンタッキーでは、レストランチェーンを経営する青木グループのためにウイスキーの樽を選んでいたのだという。青木グループは全米で12軒のレストランを経営しており、現在のオーナーは「BENIHANA」で有名なロッキー青木氏の息子にあたるケビン青木氏だ。 ジェイクはケンタッキーの旅でフォアローゼズに感動したらしく、現地での体験を事細かに説明してくれた。さまざまな酵母株を使用して、ウイスキーの風味を変化させるアプローチが面白いのだと熱っぽく語る。このあたりの関心は私も同じだ。 ジェイクはアラワイを創業した経緯についても説明してくれた。 「ウイスキーづくりを始めたのは2017年。友達に飲ませたら面白いだろうと思って始めました。最初はウイスキーの風味の90%ぐらいは木の香りだと思っていたのですが、間違いでしたね。実験を重ねるうちに、まったく同じ穀物原料を使っていても、酵母株を変えるだけで最終的な品質に大きな違いが出ることがわかったんです」 少量生産だからできる無限の実験 科学オタクを自認するジェイクにとって、ウイスキーづくりの本質は実験に次ぐ実験である。これが大手ウイスキーメーカーなら、品質の一貫性を保つために「故障じゃないかぎり改善しない」「余計な工夫はしない」といった姿勢になりがちだ。ジェイクの職業倫理はその正反対である。ウイスキーづくりのあらゆる細部に工夫を盛り込み、バッチごとに異なった原酒をつくるのだ。 生産規模はあえて極小に留め、リスクを冒しやすくする。これが小規模生産の利点であり、実際にアラワイの生産量は少ない。2018年1月に最初のウイスキーを発売し、これまでに20バッチをリリースしているが、初期はバッチあたりボトルでわずか3〜6本という量だった。最近はようやくバッチあたり44本になっている。いずれにせよ、これほど「マイクロディスティラリー」の名に相応しい蒸溜所も他にあるまい。 「可能性は無限ですよ。使用する穀物原料を変えてもいいし、マッシュビルを調整してもいいし、新しい酵母株を使ってもいい。蒸溜、濾過、熟成などの工程も変えれば、何百万通りもの組み合わせを試すことができます」 これは単なる理論上の計算ではない。実際にアラワイがリリースした20種類のバッチを見てみると、独創的なアイデアをもとに多彩なパラメーターを試していることが明らかだ。 穀物原料についても、ジェイクはこれまで大麦モルト(ノンピートとピーテッドの両方)、未発芽の大麦、コーン、ライ麦、小麦、オート麦、キアベの粉(ハワイに群生するメスキート類の木)、キアベでスモークしたコーン、ハチミツなどがさまざまな手法で使用されている。 そして発酵行程もジェイクにとって重要な実験の場だ。 「大規模な蒸溜所では、アルコール収率が優秀な酵母株を使って発酵させます。その一方で、ビールやワインなどに使われる酵母株は、ユニークな味わいを生み出すもののアルコール収率ではかなり劣り、ウイスキー酵母の半分しかアルコール発酵できない酵母もあります。このような酵母はコスト効果が低いため、大規模な蒸溜所には敬遠されがちなんです」 アラワイでは量より質が重要だ。だからこそジェイクはたくさんの酵母株を試し、最終的な商品で理想の風味を実現できるか探っている。これまでのバッチでエール酵母、スイートミード酵母、ワイン酵母、シェリー酵母、テネシー酵母などはテスト済み。現在仕込み中の酵母も、すぐに種類を思い出せないほど多彩である。 アラワイでつくるウイスキーはすべて3回蒸溜で、小型の樽(50~80L)に詰めてから「ハイパー熟成」を施す。ひどく手間のかかるプロセスで、氷点下(約−20°C)と熱帯環境(43°C)を1週間ごとに行き来するものだ。この作業を最低12ヶ月続けると、ハワイの自然な湿気と塩気を含んだ空気も手伝って力強い風味に仕上がってくる。アラワイに繊細なウイスキーを期待してはならない。樽を年間52回も移動させる手間はもちろん、「天使の分け前」が年間25~30%にも及ぶのでコストがかさむ熟成方法でもある。 いくつかのバッチでは、樽に「ハイパーシーズニング」も施している。これはオークの新樽に特定のワインやラムを詰め、自前の圧力室で6時間空気圧をかけることによって中身の液体を樽材に滲み込ませる手法だ。ワインやラムの熟成樽が即席で出来上がるわけだが、使用されるワインやラムは捨てるしかないので、これもまたコストがかかる行程である。そのため「ハイパーシーズニング」の樽を使用するバッチは年に数回のみだ。 ウイスキーがボトリング可能な状態にまで達したら、3回の濾過を施す。これが若いウイスキーに熟成年以上の滑らかさを加えることになる。この3回の濾過は、ハワイの溶岩石、黒砂、キアベの木炭を使用しておこなわれる。ここでも品質が優先なので、コストや労力に関する配慮はない。 ここでジェイクは、ハワイならではの重要な原材料について慌てて強調した。 「ハワイの水は、本当に特別なんです。純度の高い熱帯の雨と雪解け水が、標高4,000mもある多孔質の溶岩で濾過されるんですから。生命に欠かせない自然のミネラルと電解質を含んだ水が湧き出しています」 型破りな精神はそのままに増産を計画中 少量バッチに費やす労力は、毎回相当なものだ。ここまでの説明でお察しだと思う。アラワイのウイスキーは安価であるはずがない。 「水を除けば、ほとんどすべての原料をハワイの外部から取り寄せています。有機栽培の穀物も、樽も全部がそうです。ビジネス上の判断としては馬鹿げていますが、小規模なクラフト蒸溜所を設立した理由は実験がしたかったから。ウイスキーづくりの行程でさまざまなオプションを試しながら、何百万もの異なった結果を確かようと思い立ったのがそもそもの動機なので」 コスト高にも関わらず、アラワイのウイスキーはカルト的なハワイアンウイスキーファンに注目されている。新作のボトルは発売前に売り切れ、いくつかのウイスキーはラスベガスのインターナショナル・ウイスキー・コンペティションで最高賞を受賞した。最近では「キアベ」と名付けられた14番目のバッチがサンフランシスコのワールド・スピリッツ・コンペティションで2つの金賞を獲得。同じバッチが第1回東京ウイスキー&スピリッツコンペティションで「ベスト・アメリカン・ウイスキー・オブ・ザ・イヤー」に輝いた。 アラワイの品質の良さはお墨付きだ。だが多くの人を楽しませる量は生産できない。そこでジェイクは、規模を拡張した新しい蒸溜所の建設を計画している。完成すれば生産量は一気に増えるが、ウイスキーづくりの方針は変わりようがない。なぜならウイスキー業界には、ジェイコブ・リーのように前衛的な異端児がずっと必要だからだ。 日本でアラワイのウイスキーを味わってみたい方は、東京の池袋でオープンしたばかりの「アロハ・ウイスキー・バー」を訪ねてみよう。
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エディンバラのカムバック【前半/全2回】
モルトウイスキー蒸溜所の復活を、94年間も待ち続けてきたスコットランドの古都。今、エディンバラではほぼ同時に5軒のウイスキー蒸溜所が誕生しつつある。新しい伝統の創生を追う2回シリーズ。 文:ガヴィン・スミス エディンバラはウイスキーのブレンディングの本拠地として輝かしい伝統がある。特にポート・オブ・リース地区は、スコットランドを代表するウイスキーメーカーが所有するブレンディング用施設と貯蔵庫の密集地だった。そんなエディンバラが、そもそもモルトウイスキー蒸溜所の宝庫でもあった時代は約1世紀前にまでさかのぼる。 エディンバラ最後のモルトウイスキー蒸溜所は、1925年に蒸溜されたグレンサイエンズ蒸溜所である。他にもボニントン蒸溜所、キャノンミルズ蒸溜所、ディーン蒸溜所、ロッホリン蒸溜所、サンバリー蒸溜所、ヤードヘッズ蒸溜所、アビーヒル蒸溜所があった。どれも過去の施設である。 なかでも「クロフタンリー」(ゲール語で「王の畑」の意)の異名をとるアビーヒルは、ホリールード宮殿のそばで1825年以前から1852年頃まで運営された蒸溜所だ。このアビーヒル蒸溜所跡地の南に、誕生したばかりの「ホリールード蒸溜所」がある。ホリールード公園の隣で、セントレナーズ通りに面した敷地だ。 新しいホリールード蒸溜所の建物は、築180年の機関車庫である。1835年にエディンバラとダルケイスを結ぶ鉄道施設のひとつとして建てられ、歴史建造物のBカテゴリー(地域遺産)に登録されているムード満点の環境だ。 ホリールード蒸溜所は、ウイスキー関係者数名による共同事業である。その1人はマッカランの前マスターディスティラーであり「レアウイスキー101」のパートナーも務めるデービッド・ロバートソン。そしてスコッチモルトウイスキー・ソサエティのカナダ支部を創設したロブ・カーペンターとケリー・カーペンターである。 世界中の個人出資者60人から5800万ポンドの設立資金が調達され、スコットランド企業の強い味方であるスコットランド投資銀行から1500万ポンドが拠出された。蒸溜所は今年の夏から本格的に稼働を始め、いずれ一般公開される予定だ。デービッド・ロバートソンが蒸溜所の詳細について教えてくれた。 「すべての関連設備をLHステンレス社で製造してもらいました。スペイサイドの旧トウィーモア蒸溜所で運営している設備メーカーです。スチルは関連会社のスペイサイドコッパーワークスが製造したもので、ネックが長い形状です。スピリッツのスタイルはもちろん、この建物に美しく映えるデザインも意識しました。高さが7メートルもあるので、業界でもっとも背が高くて小さいスチルだと思いますよ」 観光都市らしい革新的なカスクプログラム ホリールード蒸溜所の年刊生産量は、純アルコール換算で25万リッターである。原酒は主に5種類をつくり分ける。アメリカンオークのリフィル樽と新樽で熟成した「フローラル」。アメリカンオーク樽、ワイン樽、シェリー樽で熟成した「フルーティー」。アメリカンオーク樽のみで熟成した「スウィート」。ヨーロピアンオークのシェリー樽(オロロソ、アモンティジャード、ペドロヒメネス)で熟成した「スパイシー」。そしてヨーロピアンオーク樽とアメリカンオーク樽で熟成した「スモーキー」だ。デービッド・ロバートソンが説明する。 「たくさんテストしながら、他のスタイルについても学んでいます。モルトの種類を変えたり、酵母を変えたり、蒸溜の方法を変えたり、もちろん熟成樽の構成も工夫を凝らしてみる予定。独自のリッチなフレーバーを生み出すために、思いついたことは何でもやってみようと考えています」 ホリールードの広報担当者が、ビジターセンターの計画について教えてくれた。 「ビジターセンターの目玉は、ユニークな内容の教育的なツアー。五感を使った本物のウイスキーづくり体験をご用意します。来場されたみなさんは、稼働中の蒸溜所をツアーで回りながら、フレーバーの世界を存分に探求することができるようになるでしょう」 このフレーバーの探求には、ウイスキーだけでなくジンの蒸溜も加わることになるかもしれない。ホリールードが既存の各種ジン商品の製造を同じ場所でおこなっているからだ。 またホリールードでは、革新的な「カスクプログラム」も実施する。これは酵母の種類、蒸溜時のカットのタイミング、熟成樽の種類やサイズといった無数の条件を参加者自身が選んでウイスキーをつくる画期的なプログラムだ。参加者は100人限定となるが、嬉しいのは全員がスピリッツづくりを実地で体験できるところ。ヘッドディスティラーのジャック・メイヨーまたはデービッド・ロバートソンが、樽詰めまで付き添ってくれる本格的な内容だ。 (つづく)
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エディンバラのカムバック【後半/全2回】
シングルモルトはもちろん、高品質なブレンデッドウイスキーもスコットランドの古都には相応しい。リースで復活するジョン・クラビーと、ユニークな建築のポート・オブ・リースにも注目だ。 文:ガヴィン・スミス 21世紀のエディンバラで最初にウイスキーをつくるフルスケールの蒸溜所は、前回紹介したホリールード蒸溜所である。だがそれより一足先に、モルトウイスキーとグレーンウイスキーを樽詰めしたのがジョン・クラビー&カンパニー社だ。樽詰めは2018年にグラントンのチェインピアにある試験工場でおこなわれた。都心から約3マイルのフォース湾に面した場所である。 ジョン・クラビーは19世紀のエディンバラのウイスキー業界を代表する存在だった。ディスティラー、ブレンダー、ボトラーとして、本拠地リースからウイスキーを市場に供給していた。元祖グリーンジンジャーワインも生産し、この成功が後にジョン・クラビー&カンパニー社の名声を高めることになった。現在はアルコール入りジンジャービアーでよく知られているメーカーでもある。 ディスティラーズ・カンパニー、LVMH、ヘイルウッド・インターナショナルと親会社が変遷してきたジョン・クラビー&カンパニー社だが、ここへきてウイスキーづくりのルーツに回帰しようとしている。サードパーティから調達したシングルモルトを熟成年数ごとに商品化し、野心的な蒸溜所新設プロジェクトをリースで進めているところだ。 ジョン・クラビー&カンパニー社の社長(マネージングディレクター)を務めているのは、ウイスキー業界での経験豊富なデービッド・ブラウンである。最近の動きを次のように説明してくれた。 「グラントンで試験的に稼働させている蒸溜所は、いざ新しい蒸溜所が完成したときに備えて私たちがトレーニングを積む場となっています。ジン、モルトウイスキー、グレーンウイスキーをつくっていますが、どれもまだ少量生産ですね」 試験工場には、ドイツのホルスタイン社製のスチルがある。一定した環境で商品の開発ができるようになったので、試験工場の設置は正解だったとブラウンは語る。 「酵母もいくつか違いを試したし、樽熟成の方針を決めるためにも役立ちました。試験で得られた経験は、新しく蒸溜所を建設する際に重要な情報となります。メインの蒸溜所が完成して本格的に稼働したら、この試験工場は閉鎖して貯蔵庫用のスペースにする予定です」 リースにウイスキーづくりの伝統を復活させるため、ヘイルウッドは約700万ポンドの巨費を投じる予定だという。 「蒸溜所の建設地には、グレートジャンクションストリートのヤードヘッズにできるだけ近い場所を選ぼうと考えていました。クラビー社の生産拠点があった場所だからです。その隣にはかつてボニントン蒸溜所もありました。そして私たちの新しい蒸溜所の名前もボニントン蒸溜所になります」 蒸溜所建設を決定するまでは紆余曲折もあった。リバプールに本社のあるヘイルウッド・インターナショナルは、当初アイリッシュウイスキーへの関心を高めていたのだという。 「それでも取締役の幹部とヘイルウッド創業家が、そろそろクラビーを本拠地のエディンバラに復活させてスコッチウイスキーに世界に再参入する機が熟したと判断しました。そこでリースに新しい蒸溜所を建設する計画が通ったんですよ」 前回紹介したホリールード蒸溜所と同様に、新しいボニントン蒸溜所もLHステンレスとスペイサイドコッパーワークスから設備を購入する予定だ。 「両社にスチルをはじめとするさまざまな容器類の製造を依頼しました。ウォッシュスチルは容量10,000リッターで、スピリットスチルは容量7,500リッターです。年間生産量は純アルコール換算で約500,000リッターになるでしょう。狙い通りのスピリッツを蒸溜できるように、メーカーにはスチルの形状やデザインを一緒に考えてもらいました。リースでつくるウイスキーのスタイルについては多くを明かしたくないのですが、伝統的なローランドのスタイルとは一線を画するものになるでしょう」 デービッド・ブラウンは今後の予定についても教えてくれた。 「容器類はすべて納品され、所定の位置に収まりました。9月にはスピリッツに蒸溜がスタートできると思います。蒸溜所の生産エリアとビジターセンターの間にはガラス窓を取り付けて、訪れる人たちが安全にスチルの写真を撮影できるようにします。蒸溜所内にはイベントスペースも設けようと考えてます。ウイスキーはシングルモルトを重視した生産方針。かつてのジョン・クラビーは独立系ボトラーでありながらウイスキーの生産者でもありました。この伝統を引き継いでいくのが目標です」 デービッド・ブラウンは、ホリールード蒸溜所のデービッド・ロバートソンと旧友で、2人は同職したこともある。火事になったときに原酒をすべて失うリスクを避けるため、互いの貯蔵庫にある熟成中のウイスキーを樽ごと交換する案についても検討したのだと明かしてくれた。 「他にも協働できるアイデアについて話し合っています。それはエディンバラ・ウイスキー・トレイルを作ること。3つの本格的な蒸溜所がすべて開業したら実現したいですね」 第3のビッグプロジェクト、ポート・オブ・リース蒸溜所 デービッド・ロバートソンが口にした3つ目の蒸溜所が、ポート・オブ・リース蒸溜所だ。建設される場所はロイヤル・ヨット・ブリタニアが停泊するオーシャン・ターミナルの近くにある。 ポート・オブ・リースを運営者するワイン商のイアン・スターリングと会計士のパトリック・フレッチャーは、エディンバラ出身の幼なじみ同士だ。この蒸溜所は、スコットランドで初めての「縦型」蒸溜所となることが注目されている。最上階のミルでモルトを粉砕と糖化をおこない、その階下へ運ばれて発酵工程へ。最後は1階で蒸溜をおこなうという建築設計になっている。イアン・スターリングが説明してくれた。 「建造物としてもインパクトのある現代的な蒸溜所を建設したいと考えていました。敷地が狭いので蒸溜所に最適な場所とはいえませんが、逆手をとって縦型の構造を思いついたんです。とにかくロイヤル・ヨット・ブリタニアが隣にある立地は最高。ウイスキーが販売できるまでは観光収入が大切になるので、蒸溜所の最上階にはレストランとバーを開業させます」 蒸溜所の建設に着手できるまで、構想から7年の歳月が経ってしまった。だがリースでのウイスキーづくりの伝統復活に大いなる情熱を燃やすイアン・スターリングは、すでにポート・オブ・リース銘柄でオロロソシェリーのボトルを発売するなど大胆な動きを見せている。 「今年の6月に建設を開始して、工期は18カ月間の予定。つまり2020年が終わる前に蒸溜所を始動できるのではないかと計算しています。最終的には純アルコール換算で年間400,000リッターを生産し、年間数万人のビジターを招き入れることも目標としています」 蒸溜所の完成を待つ間は、「イノベートUK」の出資によって酵母と発酵の研究プログラムも進められている。エディンバラのスチュワート・ブリューイングとグラスゴー蒸溜所でも働いたビクトリア・ミュア=テイラーが、ポート・オブ・リース用に独自の研究を進めているようだ。イアン・スターリングが語る。 「この研究の結果は誰でも利用できるようにしたいので、他のウイスキーメーカーも活用できるように何らかの形で共有する予定です」 ジョン・クラビー&カンパニー社がグラントンで試験生産を続けているように、ポート・オブ・リースもまたリースに「タワーストリート・スチルハウス」を設けてジンを生産している最中だ。イアン・スターリングは「ここではウイスキーの開発プログラムもおこなわれる予定です」と請け合う。 すでにエディンバラには「5つ星の観光スポット」と評されるロイヤルマイルの「スコッチウイスキー・エクスペリエンス」があり、プリンセス・ストリートではジョニーウォーカーが数百万英ポンドの巨額を投じた豪華な7階建てのビジターエクスペリエンスもオープン間近だ。 「エディンバラをスコッチウイスキーの生産地として完全に復活させたい」と、ジョン・クラビー&カンパニー社のデービッド・ブラウンは力強く語った。目標達成は時間の問題であろう。
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日本の焼酎樽で熟成した世界初のスコッチウイスキーが誕生
ハイランドのトマーティン蒸溜所が生産するシングルモルトウイスキー「クボカン」。このたび発売された限定商品の熟成には、なんと日本の焼酎樽が使用されているという。蒸溜所長のグレアム・ユーンソンとブランドマネージャーのロレイン・ワデルに経緯を聞いた。 聞き手:ステファン・ヴァン・エイケン クボカンは、8月末にボトルデザインと商品ラインナップを一新しました。「トマーティンは知っているけど、クボカンは知らない」というウイスキーファンのために、まずはクボカンの背景について教えていただけますか? ロレイン・ワデル:クボカンが初めて生産されて、全世界で販売されたのは2013年のことです。まず明確にしておきたいのは、クボカンが決して「ピートの効いたトーマティン」ではないということ。同じトマーティン蒸溜所でつくられていますが、完全に別個のブランドだとご理解ください。トマーティン蒸溜所では、1年のうち11ヶ月はシングルモルト「トマーティン」用にニューメイクスピリッツをつくっています。冬の1ヶ月間だけ、このラインを止めて「クボカン」用のニューメイクスピリッツづくりに専念します。両者は生産工程が大きく異なり、蒸溜時のカットポイントも変えています。クボカンのラインナップは「トマーティン ハイランド シングルモルト」とは異なるライトリーピーテッドのモルト原料を使用しています。そして熟成用の樽のスタイルもまったく異なるのです。 トマーティン蒸溜所がピーテッドモルトでウイスキーをつくり始めたのはいつのことですか? グレアム・ユーンソン:近年の歴史でいえば、2005年12月からピーテッドモルトを使ってスピリッツを蒸溜しています。 ピーテッドモルトのフェノール値はどれくらいですか? グレアム・ユーンソン:クボカンのスピリッツに使用するモルトのフェノール値は約15ppmです。これはクボカンの生産を開始した2013年から変更していません。 年間の生産量でいうと、ピーテッドモルトの割合はどれくらいですか? グレアム・ユーンソン:平均で約8%です。ただし年間の総生産量によって数字が上下します。 新しいクボカンのラインナップを見ると、まず「シグネチャー」 があって、さらに「クリエーション #1」と「クリエーション #2」があります。これは「シグネチャー」 が恒常的な商品で、「クリエーション」が今後も続く限定商品のさきがけということですか? グレアム・ユーンソン:「シグネチャー」は、現行商品と同様の内容です。「クリエーション #1」と「クリエーション #2」は年に一度の限定リリースなので、売り切れ御免の商品となります。これからも同様の独創的なウイスキーをリリースしていく予定です。実験的な樽熟成を取り入れたユニークなフレーバーをお楽しみください。 「シグネチャー」の中身は、これまでのクボカンのスタンダード商品と同じものですか? グレアム・ユーンソン:おっしゃる通りです。中身は完全に同じものです。 まだクボカンを未体験の人に説明するなら、「シグネチャー」はどんな風味のプロフィールを持ったウイスキーですか? グレアム・ユーンソン:軽やかなピート香が、リッチな柑橘やエキゾチックなスパイスに融合した味わいのウイスキーです。 2つの「クリエーション」は、非常に特徴的な2種類の樽材をマリッジさせて風味を仕上げているようです。このようにユニークな組み合わせはどうやって発見するのでしょうか? グレアム・ユーンソン:新しいクボカンのラインナップは、すべて「繊細なスモーク香と甘味の完璧なバランス」というテーマを念頭に置いています。そのなかで「クリエーション」は革新的な熟成で興味を持っていただき、驚きをもたらす実験的なハイランドのシングルモルトを模索しています。これからのラインナップでも、同様のマリッジを駆使した変わり種のフィニッシュを取り入れていく予定です。例えば今回のような「ブラックアイルブリュワリー・インペリアルスタウト」のビール樽と「モスカテル・デ・セトゥ-バル」のワイン樽。あるいは日本の焼酎樽とヨーロピアンオークの新樽。そんな組み合わせをこれからも模索していきます。 「クリエーション #2」についてうかがいます。日本国外のウイスキー蒸溜所で焼酎樽が使用されるのは、史上初めてのことだと思います。これはどんな種類の焼酎を貯蔵していた樽なのですか? グレアム・ユーンソン:連続蒸溜でつくった麦焼酎を熟成した樽です。樽自体はトマーティンの主要株主である宝酒造から調達しました。 ピート香のあるスピリッツを焼酎樽で熟成すると、どんな効果が得られるのでしょうか? グレアム・ユーンソン:「クリエーション #2」のフィニッシュでは、その84%に日本の焼酎樽を使用しています。だからこのウイスキーのフレーバーは、かなりの部分が焼酎樽の影響から成り立っているといえるでしょう。日本の焼酎樽を単体で使用すると、クボカンのスピリッツにユニークな高揚感が加わります。フルーツキャンディーやフレッシュなライムのような感触ですね。同時に焼酎樽は、クボカンが持つ土っぽい特性をうまく引き出してくれました。でもフィニッシュのエーテル感が強すぎるので、ヨーロピアンオークの新樽で熟成した原酒とマリイングさせて深みを加えました。こうすることで、日本の焼酎樽からもたらされる風味の余韻が舌の上で長く感じられるようになるのです。 ひょっとして、ノンピートのトマーティンでも焼酎樽で熟成しているものはありますか? [...]
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ラッセイ島でウイスキーづくりが復活【前半/全2回】
スコットランドのラッセイ島で、長らく廃れていたウイスキーづくりが復活した。興味深い島の歴史と蒸溜所建設までのいきさつをクリストファー・コーツが紐解く。 文:クリストファー・コーツ 岩がちな海岸線と丘陵が美しいラッセイ島(アイル・オブ・ラッセイ)は、ロマンティックな景色で訪れる人々を魅了する。南北に約23km、東西に約5kmという細長い形で、ラッセイ湾越しのスカイ島や、アップルクロス湾越しのグレートブリテン島本土が見渡せる。 ラッセイ島の人口は約150人ほどだが、季節によって変動がある。近年は本土からの旅行先としても人気も高まってきた。かつてマクラウド氏族 (スカイ島のマクラウド氏ではなく、ルイス・マクラウドの系譜)の支配も経験し、1840年代に支配者一族によって売却された。その1世紀前に起こったジャコバイト蜂起の失敗から、財政的に完全な建て直しができなかったのが島を手放す遠因になったようだ。 今でもインベラリッシュの町では、1913~1919年に採掘がおこなわれた鉄鉱山と、採掘の労働者達が住んだ現地の村を偲ぶことができる。当時から減る一方だった島内の人口が、急上昇したのは鉄鉱採掘があったからだ。鉄鉱の生産は、第1次世界大戦の勃発とともに本格化した。採掘された鉱石はスイスニッシュにある専用埠頭から英国軍需省のサプライチェーンに向けて船で出荷された。当時の埠頭は今でも港に残されている。 たくさんのラッセイの男たちが外国での戦争を後方支援する一方で、約260人のドイツ人捕虜たちもラッセイでの鉄鉱採掘に借り出された。地元民たちとの関係は良好であったと伝えられているが、あいにくスペイン風邪の大流行が島を襲った。多くの捕虜と労働者が命を落とし、島内の人口も激減することになったのである。残酷な運命の悪戯によって、働き者の男たちは戦争を生き延びながらも家族が待つ故郷の地を踏むことが叶わなかった。彼らの亡骸はラッセル島に埋葬されている。 スコットランド農村部の常として、ラッセイもまた長期間にわたってウイスキーを密造してきた歴史がある。ウイスキーはいくつかのグレン(谷)で蒸溜されていたが、そのひとつが「エア」という名のグレンだ。歴史的な屋外蒸溜施設の名残りは、場所さえ知って入れば今でも訪ねることができる。 長いウイスキーづくりの歴史があるにも関わらず、ラッセル島で合法的にウイスキーづくりがおこなわれたことは過去に一度もなかった。そんな歴史が終わりを告げたのは2017年9月のこと。ラッセイ蒸溜所の創業者であるアラスデア・デイが、長年の夢を達成した瞬間だった。主要メンバーは他に3人いる。創業パートナーのビル・ドビーは、テクノロジー系の起業家で、オンラインの出会い系プラットフォーム「Cupid」の創設者。イアン・ロバートソンは、名高いヘリオットワット大学の醸造蒸溜科を卒業した蒸溜責任者。そしてビジターセンター専任チームを率いるのはイアン・ヘクター・ロスだ。 18世紀のブレンドを再現し、約束の地と出会う 乳業に長く関わってきたアラスデアにとって、フレーバーや熟成などの分野は馴染みが深いものだったという。食品科学、健康、安全、物流などの複雑な諸問題も恐れるに足らない。だがアラスデアには、ウイスキーのブレンディングに携わっていた曽祖父の知恵を生かしたいという欲望があった。それを具現化したのが、蒸溜所で最初のブランド「トゥイーデイル」だ。ブレンディングに関して明らかな天賦の才を感じさせるアラスデアだが、それに加えて自宅の地下に眠っていた曽祖父のウイスキーレシピを切り札として活用したのだ。 一族内で何世代も前からひっそりと継承されてきたブレンドの知識を使って、アラスデアは古いブレンデッドウイスキーの商品を創作してみせた。そのすべてがかなりの好評を博すことになり、特に「トゥイーデイル 12年 オールドバッチ 2」は2013年度のワールド・ウイスキー・アワード(WWA)で「ベスト・スコッチ・ブレンデッドウイスキー(12年以下)」のタイトルを獲得。その後のすべてのバッチでも、同アワードのブラインドテイスティングで8.6〜9.0という高得点を維持してきた。ウイスキー業界での経験がまったくない状態から、前職を辞めてウイスキー会社を設立するという夢を追った男にしてはほとんど偉業と呼ばねばなるまい。アラスデアは次のように語っている。 「ほとんどの人は、難しいウイスキーの仕事よりも楽な仕事を見つけて続けようと思うでしょうね。いい車に乗って、安定した生活を送って。でも私は別の道を選んでしまったんです」 アラスデアによると、そもそも最初の計画は、先祖がコールドストリームで続けていた事業を復活させることだった。当時のコールドストリームでは、ビクトリア朝時代のブレンダーだった曽祖父がビール醸造にも乗り出しており、その後でボーダーズ蒸溜所を設立したというゆかりの地なのである。 だが旧い学友でもあったイアン・ヘクター・ロスを通して、ウイスキーづくりに相応しそうな場所がラッセイ島で売りに出されていると教えてもらった。その話に飛びついたのはビル・ドビーだった。ラッセイ島なら、これからつくる新しいウイスキーブランドの本拠地としてもユニークだ。ラッセイ島で生まれたイアンの妻にも強く勧められ、ビル・ドビーは誰も住んでいない「ボロデール・ハウス」を購入することにした。 ボロデール・ハウスは美しいビクトリア朝の邸宅で、「ボロデール」の名は近所にある鉄器時代の石造円塔にちなんでいる。敷地からはスカイ島のクイリン・ヒルズが一望できて、まさに息を呑むような絶景だ。この物件を購入して蒸溜所を創設する計画が固まった時点で、運営会社の社名は「ラッセイ&ボーダーズ・ディスティラーズ」に決まった。ちなみにザ・スリー・スティルズ・カンパニーがホーウィックに新設したボーダーズ蒸溜所とは一切関係がない。 (つづく)
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ラッセイ島でウイスキーづくりが復活【後半/全2回】
ラッセイ蒸溜所は、始動してわずか3年後には最初のシングルモルトを発売する計画だ。設備の細部に、そのユニークな品質を目指した綿密な戦略が現れている。 文:クリストファー・コーツ 2014年5月に初めてラッセイ島の建設予定地を訪れた創業者のアラスデア・デイは、アレン・アソシエイツの設備技師たちとラッセイ蒸溜所の基本デザインについて議論を開始した。 「つくりたいウイスキーのスタイルを伝えて、そこから生産プロセスを設計することができました。目的に沿った蒸溜所設計ができて、しかもいくつかの異なったスタイルの原酒を生産できるようになったのは大きな収穫です」 新設された蒸溜所の多くが少なくとも10年は熟成に費やしているのに対し、ラッセイのシングルモルトは最短時間で酒屋の棚に並ぶ道を選んでいる。 「素晴らしい品質の3年熟成のウイスキーをつくろうと決めました。品質至上主義であり、3年の年月で重層的な深みと複雑さを完成させるアプローチをとっています。このような蒸溜所は少数派ですね。まだわからない部分もありますが、昨年ニューメイクをつくったときには自信が湧いてきました。あれから1年が経って、すべてが順調に進んでいる手応えを感じています」 比較的短い熟成時間で複雑なフレーバーを構成するには、工場の設計自体にも独特の工夫を盛り込まなければならない。具体的には、発酵時間を長めにとって、ユニークな樽による熟成を採用することなのだとアラスデアが説明する。 「ウォッシュバックに被せる冷却用ジャケットを用意しました。ウォッシュスチルのラインアームにも冷却用ジャケットを使用し、スピリットスチルのラインアームには6つの銅製プレートからなる精溜器も付設しました。ひとつの工場で、6〜7種類のスピリッツを蒸溜できるようになっています」 ウォッシュバックの冷却ジャケットは、発酵が活性化しすぎないように温度を調整するためのものだ。発酵が活発すぎると、アルコールや大事な風味成分を生成する前に酵母が使い果たされてしまう。 「発酵時間をゆっくり長めにとることで、はっきりとした違いをもたらすことができました。具体的には、フルーティーな風味です。これは当初から目的にしていた要素で、冷却ジャケットを導入したのもフルーティーな酒質を得るため。発酵状態を細かく制御するのは難しいので、理想の状態になっているか何度も確認しています。甘くてフルーティーなフレーバーは、ニューメイクをテイスティングしていただけたらおわかりいただけますよ」 ラッセイ蒸溜所のチームは、シャンパン用酵母でも実験的な発酵を開始している。この酵母はノンピート原酒向けに使用され、昨年より常用してきたウイスキー酵母と並んで用いられることになる。 ウォッシュスチルのラインアームに取り付けたウォータージャケットを作動させると、気化した蒸留物がポットへと戻されることになる。これまでに使用した回数は数えるほどだが、ラッセイ蒸溜所のチームはこのユニークな機器を使用することでスピリッツの重量感や凝縮感が増すことに気づいた。 これは「銅との接触時間が増えるほどスピリッツの酒質が軽くなる」という従来の常識に反する報告である。すでに軽やかでフルーティーなヘビリーピーテッドのスピリッツをつくっているが、さらにヘビーなピーテッドモルトを蒸溜するときにウォータージャケットの凝縮効果を活かそうという計画だ。試行錯誤はまだ続いている。 実験精神で無二のフレーバーを生み出す モルト原料についても、実験精神を大いに発揮している。蒸溜所チームの強い希望により、ラッセイ島では実に40年ぶりとなる大麦の栽培が復活することになった。気候が難しいこともあって、最初の試みで得られたモルトはマッシュ1回分の3分の1ほど。それでもチームはハイランズ&アイランズ大学と共同でラッセイ島の気候に合った大麦品種を探し続けている。この共同研究では、スコットランド伝統の六条大麦品種「ベア」での試験蒸溜も進めているのだという。うまくいけば、現代の品種とはっきり異なった個性のスピリッツをつくることができるだろう。 熟成にも独自のこだわりがある。アラスデアは伝統的な種類の樽をあえて避けているのだ。これは他の新興蒸溜所と明確に差別化できるウイスキーを生産するためである。 「バーボンバレルも、シェリー樽も使っていません。STR樽(シェービング、トースティング、リチャーリングを施した樽)もないので、他の蒸溜所とはだいぶ違いますよ」 その代わり、ラッセイ蒸溜所ではウッドフォードリサーブから調達したライウイスキーのバレル 、ボルドーで使用された赤ワインのバリック、ヘビーなチャーを施したチンカピングリ材の新樽などが使用されている。チンカピングリはホワイトオークの仲間で、チェスナッツ(栗)としても知られる北米産の木材である。 「思い上がった傲慢な奴だと思われたくはないのですが、スコッチウイスキーを定義した現行ルールの枠内でも新しいウイスキーづくりのイノベーションは可能だと思っています。必要なのは、とことん知恵を絞ることだけ。単なる目新しさだけのために、風変わりな木材でつくった樽に貴重なスピリッツを入れる訳にはいきませんから」 アラスデアの最終的な狙いは、多様な原酒のストックモデルを作り上げることだ。個性豊かな原酒があれば、調合の比率を変えながら驚くほど幅広い味わいのコア商品を開発することができる。この方針は先行発売の「ラッセイ ホワイル・ウィー・ウェイト」に使用した原酒の多彩さにも現れている。 このウイスキーは、あるハイランドの蒸溜所からヘビリーピーテッドとノンピートのシングルモルトウイスキーを調達し、ブレンドしてからワイン樽でフィニッシュしたユニークな商品だった。アラスデアは語る。 「スコッチウイスキーのつくり方としては、かなり手間のかかる方法だと思います。でも生来のブレンダーが蒸溜所を建てると、こういうことをやっちゃうんです」 ラッセイ蒸溜所のシングルモルトウイスキーが初めてお目見えするのは、2020年のクリスマス頃になりそうだ。シングルモルトのコアレンジは、2021年初頭から先行予約受付が始まる予定である。それまで待ちきれないというファンのみなさんは、ラッセイのニューメイクスピリッツを樽で購入できる(容量190リッターのテネシーウイスキーバレルまたは容量30リッターのスペイサイドウイスキー樽)。または蒸溜所を訪ねて、隣接する「ボロデール・ハウス」に1泊してみるのも面白いだろう。
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シーバスリーガルの故郷、ストラスアイラ蒸溜所を訪ねて
スコットランド屈指の景観を誇るスペイサイドの蒸溜所。シーバスリーガルの故郷として愛されるストラスアイラの歴史と近況をグレッグ・ディロンがレポート。 文:グレッグ・ディロン ウイスキー蒸溜所を描いた1枚の絵葉書を想像してみよう。そこにはおそらく立派なパゴダ風の屋根があり、窓から銅製のポットスチルも垣間見えるかもしれない。手入れの行き届いた庭と芝生に囲まれ、明るい緑の草木が生い茂る。背景には丘の稜線が美しくうねっているだろう。 そんな想像上の風景と寸分も違わない蒸溜所が、ウイスキー王国のスペイサイドに実在する。シーバスリーガルの故郷として広く知られるようになったストラスアイラ蒸溜所だ。間違いなく、スコットランド最高の景観を誇る蒸溜所のひとつである。 この蒸溜所はストラスアイラと名付けられる前に、ミルトン蒸溜所と呼ばれていた時代もある。創設は1786年なので、スコットランドでもっとも古い蒸溜所のひとつに違いない。少なくとも現在稼働中の蒸溜所のなかでは最も古いという説がある。 蒸溜所を創設したのは、ジョージ・テイラーとアレグザンダー・ミルンだ。しかし創設から数十年のうちに、何度も所有者が変わることになる。蒸溜所のそばを流れる川の名前が「ストラスアイラ」なので、地元の人々は初期よりストラスアイラ蒸溜所と呼んでいたようだた。1830年にウィリアム・ロングモアがマクドナルド・イングラム&カンパニーから蒸溜所を購入した時は、すでにストラスアイラ蒸溜所という名称が定着していた。 だが残念なことに、蒸溜所は1870年代に入って2回も火事に見舞われた。最初の火事は1876年で、1879年にはモルトミルの爆発から再び出火。蒸溜所はほとんど崩壊しかけたが、何とか建て直して操業を続けることができた。再建のついでにボトリング工場まで新築したというから大したものだ。 ロングモアは1880年に亡くなるまで蒸溜所を保有し、その後は娘婿であるジョン・ゲデス=ブラウン が継いだ。このゲデス=ブラウンの時代に、蒸溜所の名前は再びオリジナルのミルトンに変えられている。だがこの方針が災いしたのか、蒸溜所はまもなく50年間にわたる休止期間に突入してしまった。 この50年の休止期間中に、ウィリアム・ロングモア&カンパニー株の大半がジェイ・ポメロイなる人物の手に渡った。このポメロイが誠実な商売人であったとは言い難く、行きあたりばったりの采配を続けた挙げ句に会社も潰してしまった。 このチャンスを見逃さなかったのが、当時のシーグラムである。見事な景観を持つ蒸溜所を購入して瀕死状態から救い、1951年から再びストラスアイラ蒸溜所と名付けて稼働させたのだ。シーグラムはポメロイが会社を倒産させる前から蒸溜所の買収について打診を続けていたが、ポメロイの要求があまりにも高いので一度は諦めていた。だがポメロイが破産したところで再度交渉し、71,000英ポンドというリーズナブルな価格で手に入れることができたのである。 その後、シーバスはまもなくシーバスブラザーズとなった。それ以来、ストラスアイラ蒸溜所はシーバスリーガルの心の故郷して親しまれ、現在もシーバスリーガルのブランドストーリーを伝えるツアーが開催されている。蒸溜所を訪ねた人々は、その卓越したブレンディングの技術についても触れることができるようになった。 ストラスアイラ蒸溜所のビジター体験は、2018年に大きくアップデートされている。ウイスキー観光を目的とした世界中からの来客が、シーバスリーガルとストラスアイラのブランドをインタラクティブに理解できる構成だ。ウイスキーファンなら、人生に一度は訪れておくべき場所。そう断言できる蒸溜所はさほど多くない。 他の追随を許さないビジター体験 シーバスのブランド体験を管轄するユアン・ハドソンは次のように述べている。 「ビジター施設を改装したのは、来客者の心をつかんで没入感たっぷりの体験を創り上げるため。ブレンド技術の素晴らしさを伝え、ハイランド最古の現役蒸溜所であるストラスアイラの歴史と伝統を実感していただくのが狙いです。新しいブレンド室ではインタラクティブな仕組みを導入し、超プレミアムなブレンデッドウイスキーを創造するチャレンジをリアルに楽しく体験することができます」 ストラスアイラ蒸溜所は、ウイスキーづくりを基礎レベルから学びたい人にぴったりのチャンスを提供してくれる。さらにブランドや味わいの変遷についても正確に理解できるようになる。各種ツアーはこぢんまりとした個人訪問のようで、一般の大型蒸溜所に見られるパッケージツアーのような印象は少ない。ロイヤルサルートとシーバスリーガル用の貯蔵庫には秘密のエリアまであり、驚くほど希少なウイスキーを樽出しでテイスティングできるのだとハドソンは教えてくれた。 「ビジターの皆様のご意見に耳を傾けることで、何よりもビジター体験に重きをおいたサービスを生み出すことができました。ウイスキーマニア、コレクター、愛飲家、歴史研究家、ショッピングマニア、カクテルファン、熱心な勉強家など、どんな人の心にも残るように趣向を凝らしています」 自分でブレンディングを学んで、理想のウイスキーを調合できる「ザ・ブレンド・エクスペリエンス」は特別室で開催される。ウイスキーのファンやコレクターはもちろん、最近になって興味が増した人たちも自分だけのウイスキーをブレンドできるのだ。フレーバーのバランスについて学びながら、ほんのりとしたスモーク香の魅力などについて実地で理解しながら試行錯誤できる。 このような体験は、どこでも簡単に得られるものではない。自分でブレンドした200mlのウイスキーを瓶詰めして持ち帰るのも大きな楽しみだ。運営に慣れたストラスアイラのチームと一緒に、参加者は自分のブレンドを組み立てながらさまざまな知識を学ぶことができる。ハドソンは最後にこう語ってくれた。 「これからもさらに革新的なアプローチを模索しながら、人生やスコッチウイスキーにおける”ブレンド”の面白さについて伝導していきたいと思っています。自分のブレンドをお持ち帰りいただける『シーバス・ブレンディング・キット』は、ビジターやウイスキーファンの皆様に大好評です。ガイド付きのテイスティングセッションとブレンド教室を組み合わせた『ザ・ブレンド・エクスペリエンス』は各都市のバーで開催されています。いかにも敷居が高そうなスコッチウイスキーのイメージは忘れて、誰にでも気軽に楽しめるような内容になっていますよ」
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極上のピートが香る「ボウモア ヴォルト」の新エディションが数量限定発売
アイラモルトの女王と謳われるボウモアの象徴は、海抜0mの「第1貯蔵庫」だ。海のアロマを間近に浴びたアイラファン垂涎のウイスキーが、味わいを変えて再び数量限定で発売される。 文:WMJ 岩がちな海岸沿いにある古い白壁の蒸溜所。北の海の波しぶきが霧のように漂い、熟成中のウイスキー樽に滲み込んでいく。スモーキーなウイスキーが好きな人なら、原風景のように憧れるアイラモルトのイメージだ。そんな場所が、実際に存在するといったら信じられるだろうか。 インナーへブリディーズ諸島の最南端に位置するアイラ島は、ウイスキーファンによく知られたモルトウイスキーの聖地。この島で1779年に創業されたボウモア蒸溜所は、スコットランドでも屈指の歴史を誇る蒸溜所だ。伝統のフロアモルティング製法を今でも守り、麗しい気品と力強さを兼ね添えたシングルモルトウイスキーが「アイラモルトの女王」と称えられている。 ボウモア蒸溜所の敷地内には、3棟の貯蔵庫がある。特に有名なのは「No.1 Vaults(ヴォルト)」、つまり第1貯蔵庫だ。海に面して建つボウモア最古の貯蔵庫で、海抜は実に0メートル。天候によっては、外壁に大西洋の波しぶきが容赦なく打ちつける。周囲にはいつもスプレーのように海水のアロマが舞い上がり、貯蔵庫内にもかすかに潮の香りが漂っているという環境だ。 敷地内にある3棟の貯蔵庫で、特に有名なのはボウモア最古第1貯蔵庫だ。英語では「No.1 Vaults(ヴォルト)」。海抜0メートルという場所のため、海が少しでも荒れると外壁に大西洋の波しぶきが打ちつける。周囲にはいつもスプレーのように海水のアロマが舞い上がり、貯蔵庫内にもかすかに潮の香りが漂っているという環境だ。 こんなウイスキーファン憧れの場所でじっくりと熟成されたシングルモルトウイスキーが、2017年より数量限定発売されている「ボウモア ヴォルト」である。 ピートを強化した優雅なスモーク香 「ボウモア ヴォルト」は厳選された樽で熟成され、50%という高めのアルコール度数でボトリングされている。昨年までのファーストエディション「アトランティック・シーソルト」は海の香りを強調したアロマが特徴だったが、このたび発売されるのはセカンドエディション。その名もずばり「ピート・スモーク」である。 グラスに注ぐと、色は鮮やかなゴールデンブラウン。ピートの香りと甘い匂いに、キャラメルや皮革のニュアンスも溶け合い、タイム、ローズマリー、ミントなどのハーブ香も感じさせる。口に含むと、甘いチェリーや完熟のフルーツ。そして燻製小屋や火山灰を思わせるような深いピートのスモーク風味がある。 そしてボウモアといえば、やはり圧巻のフィニッシュが魅力だ。甘くクリーミーな後味には、かすかなミネラル感も漂っている。 ピート由来のスモーク香を強化し、デザインも刷新した「ボウモア ヴォルト」。まさにボウモア第1貯蔵庫ならではのマイクロクライメート(微気候)を閉じ込めた贅沢なシングルモルトウイスキーである。ボトリングされたばかりの新しい魅力を、この秋にじっくりと味わってみたい。 ボウモア ヴォルト 容量:700ml アルコール度数:50% 希望小売価格(税別):12,000円 ※価格は販売店の自主的な価格設定を拘束するものではありません。 ▼発売期日:2019年11月5日(火)(数量限定) ▼発売地域:全国 アイラモルトの女王と謳われるボウモアの歴史、製法、商品などの情報が満載のオフィシャルサイトはこちらから。 WMJ PROMOTION
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アメリカのウイスキートレイル【前半/全2回】
世界中の蒸溜所訪問を夢見るウイスキーファンは多いことだろう。クラフト蒸溜所が激増しているアメリカでは、各地に「ウイスキートレイル」が整備されている。2回シリーズのレポート。 文:マギー・キンバール バーボンの蒸溜所訪問を目的とした観光は、かなり以前から定着している。バーボンの父と呼ばれるエドモンド・ヘインズ・テイラー大佐が、オールドテイラー蒸溜所(現在のキャッスル&キー蒸溜所)を設立し、来訪者が蒸溜所を見学しながら丸一日過ごせるような場所にしたのは19世紀のことだった。 その後、20世紀に入って、ジュリアン・”パピー”・ヴァン・ウィンクルも、共同事業者のアレックス・ファーンズリーとアーサー・スティッツェルと共に同様のスタイルでスティッツェル・ウェラー蒸溜所を建設した。 バーボン業界は、本来ならライバルでもある同業者同士で協力しあいながら発展してきた歴史がある。ケンタッキー蒸溜酒メーカー協会(KDA)が「ケンタッキー・バーボン・トレイル」を整備したのは1999年のこと。ウイスキー観光が本格的に盛り上がってきたのはこの頃である。 観光客が1軒だけでなく複数の蒸溜所を訪ねらるように環境を整備し、蒸溜所を中心にして地域の観光が組み立てられるようにする。それがトレイル発足の狙いである。 「ケンタッキー・バーボン・トレイル」の誕生以来、米国の蒸溜所観光は急速に成長してきた。2015〜2018年の間だけでも、観光客の数は1.6倍に増えている。年間100万人だった観光客が、ほんの数年で165万人になったのだ。ケンタッキー州ルイビルでは「アーバン・バーボン・トレイル」が生まれ、KDAは「クラフト・ディスティラーズ・トレイル」の普及に力を入れている。 広いアメリカで次々に生まれるトレイル ルイビルの「アーバン・バーボン・トレイル」は、ケンタッキー・バーボン・トレイルを訪ねてやってきた観光客たちが、ルイビルに宿泊する際に夜の目的地を指南するためのガイドだ。一方の「クラフト・ディスティラーズ・トレイル」は、大規模な蒸溜所だけでは飽き足らないウイスキーファンに、小規模蒸溜所の見学を楽しんでもらおうと企画された。 後発でケンタッキー州北部に生まれた「Bライン」は、オハイオ州シンシナティ南部の郊外にある蒸溜所、バー、レストランを巡るルートである。他にもブリット郡の「ワイン&ウイスキー・トレイル」など、ケンタッキー州内だけに目を向けてもたくさんのトレイルがある。 ひとつの州でもこれだけのトレイルがあるのだから、全米にまで視点を広げると嬉しい驚きで声を上げることになるだろう。もちろんこの現象は、現在のクラフトウイスキーブームのおかげである。米国内のどこに住んでいても、数時間ドライブすればどこかの蒸溜所のツアーに参加できるような状況になっているのだ。 早期からクラフト蒸溜所ブームに乗った地域なら、蒸溜所見学のトレイルが整備されている可能性も高い。たくさんの州が、それぞれラム、ジン、ウォッカなどの多彩なスピリッツを産出しているが、その一群には必ずといっていいほどウイスキーの蒸溜所が含まれている。 王道の「ケンタッキー・バーボン・トレイル」を制覇した人も、全米各地に広がるウイスキートレイルを訪ねて、未知の蒸溜所に出会う旅を楽しんでみよう。次回は全米に広がる13のウイスキートレイルを一挙紹介。 (つづく)
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アメリカのウイスキートレイル【後半/全2回】
アメリカのウイスキー観光は、何といっても自由の国を象徴する多様性が魅力だ。ここに紹介する13のルートからお気に入りを選んで、次の旅行計画に組み込んでみよう。 文:マギー・キンバール バージニア・スピリッツ・トレイル:ウイスキー以外の蒸溜所もたくさん含まれているが、週末をたっぷり使ってさまざまなウイスキー蒸溜所を訪ね歩くことも可能だ。ジョージ・ワシントン大統領が創設したマウントバーノン蒸溜所とグリストミル(粉挽き小屋)、バージニア蒸溜所、カトクティンクリーク、コッパーフォックス、KOディステリング、A・スミス・バウマンなどはすべてウイスキー蒸溜所だ。このトレイルでは、蒸溜所の他に道中のアトラクションや飲食店のおすすめも提案してくれる。(virginiaspirits.org/trail) ウイスキー・リベリオン・トレイル:アメリカ東海岸の北部には、さまざまなスタイルのライウイスキーを生産してきたことで知られる地域がある。この「ウィスキー税反乱」をテーマにしたウイスキートレイルは、アメリカの歴史のなかでも特に誤解されがちな事件を記念したルートである。ウイスキー・リベリオン(ウィスキー税反乱)は、酒税を疎ましく思ったウイスキーメーカーが税の支払いを拒否した事件として語られることが多いが、ジョージ・ワシントンが手勢の兵士13,000人を引き連れて合衆国初の税金を力ずくで徴収した歴史的事実はしばしば都合よく忘れられている。ガイド付きのトレイルツアーは、フィラデルフィアからワシントンDCやボルティモアを巡りながら当時の歴史を振り返り、オプションとして蒸溜所見学(17〜359ドル)も付けられる。(whiskeyrebelliontrail.com) アメリカン・ウイスキー・トレイル:このウイスキートレイルは米国蒸溜酒評議会(DISCUS)が支援するルートだ。複数の州にまたがって蒸溜所と歴史遺産を訪ねるコースだが、一部の目的地はケンタッキー州内にあり、「ケンタッキー・バーボン・トレイル」とも重複している。(americanwhiskeytrail.com) テネシー・ウイスキー・トレイル:世界でいちばん売れているアメリカンウイスキーといえばジャックダニエル。だが長らくテネシー州にはジャックダニエルとジョージディッケル以外の蒸溜所が存在しなかった。それでも近年のクラフトウイスキーブームのおかげで、今では24軒以上の蒸溜所が点在するウイスキー州に変貌している。(Tnwhiskeytrail.com) カム・ファインド・バーボン:略して「CFB」トレイル。ケンタッキーの中でも小規模な町を網羅し、フランクフォート、コビントン、バーズタウンなどを訪ねる。いずれもウイスキーづくりが日常の中心にあるようなバーボンタウンだ。(comefindbourbon.com) テキサス・ウイスキー・トレイル:何でもスケールが大きいテキサス州。ウイスキートレイルもあまりに長大なので3つの地域に分割されている。ノース・テキサス・トレイルでは、アイアンルートリパブリックやバルコネスなどの蒸溜所を訪問できる。ヒル・カントリー・トレールではトリーティーオークやギャリソンブラザーズ。ガルフ・コースト・トレイルはガルフコーストとMKTの2軒のみが対象だ。(texaswhiskeytrail.com) コロラド・スピリッツ・トレイル:このトレイルはウイスキー以外の蒸溜所も含まれるが、クラフトウイスキー界では有名なストラナハン、ブレッケンリッジ蒸溜所、レオポルド・ブラザーズ、オールドエルクなどがずらりと揃ったコースである。何しろ全部で62軒もの蒸溜所があるというから驚きだ。(coloradospiritstrail.com) ウイスキー・ワイン&エール・トレイル(オハイオ州ドレイク郡):スピリッツ、ワイン、ビールを組み合わせて、お酒好きの観光客に丸ごとアピールしようというトレイルもある。このルート上で唯一の蒸溜所はインディアンクリーク蒸溜所だが、同じ郡(カウンティ)の中で3軒のビール醸造所と4軒のワイナリーも訪問できるのだから悪い話ではない。(whiskeywineandaletrail.com) ワシントン・ディスティラリー・トレイル:この蒸溜所トレイルが用意したインタラクティブなマップは、9種類のスピリッツにカテゴリー分けがなされている。アガヴェ、ブランデー、ジン、ウイスキーと何でもありだ。地図上のマーカーを見ればどのカテゴリーに属するのかが一目瞭然なので、ユーザーは自分が訪ねたい目的地のルートを思い思いに計画できる。ウイスキー関連で24軒以上あるが、州内にはそれ以上の蒸溜所がある。ウェストランド、ドライフライ、ベインブリッジなどが有名である。(washingtondistillerytrail.com) ニューヨーク州・ディスティラリー・トレイル:ウィドウジェーンやキングスカウンティ蒸溜所など、ニューヨーク都市圏内にある10軒の蒸溜所を訪ねてもいい。あるいはニューヨーク州内の他の2地域へ足を伸ばしてみる選択もあるだろう。ハドソンバレー地域にはコッパーシーやヒルロックエステートなどの蒸溜所がある。またウエスタントレイルのコースを選べば、フィンガーレイクスディスティリングほか9軒のメーカーを訪ねることができるだろう。(nydistilled.com/trail) ドリンク・ミシガン:このトレイルだけで24軒の蒸溜所があるが、ミシガン州の蒸溜所の数はもっと多い。だから訪問先をウイスキー蒸溜所だけに絞ってみたいのなら、独自にリサーチしながらトレイルを外れて足を伸ばすことも必要だ。ミシガン州には、とにかくお酒が好きな人の見どころがたくさんあるのだ。(drinkmichigan.org/spirits) フィリー・ディスティラリー・トレイル:映画『ブラザリー・ラブ 兄弟の絆』の舞台となったフィラデルフィアには、11軒のスピリッツ蒸溜所がある。ウイスキーファンへのおすすめは、数々の受賞歴を誇るライウイスキー「ダッズ・ハット」を生産するダッズ・ハット蒸溜所だ。(phillydistillerytrail.com) ウイスキー・ロウ・ポートランド:ヒップな都市として人気のポートランドにも、12軒のバラエティ豊かな蒸溜所がある。だがどうしてもウイスキー蒸溜所だけにこだわりたいのなら、それでもさまざまなオプションが見つかるだろう。ウェストワード・ウイスキーや、ニューディール蒸溜所でのウイスキーづくり教室は特に見逃せない。(distilleryrowpdx.com)
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アメリカンシングルモルトの衝撃
新しい土地で始まる、新しい物語。満を持して発売されたウイスキーは、圧巻のクオリティーを備えていた。シアトル生まれの「ウエストランド」で、アメリカ最高のシングルモルトを体験しよう。 文:WMJ アメリカンシングルモルトウイスキー。何と斬新な響きだろう。シングルモルトのファンも、アメリカンウイスキーのファンも、この真新しいジャンルについてはまだ多くを知らないはずだ。 だが先駆者であるウエストランド蒸溜所は、ここまで着々と準備を進めてきた。2010年にアメリカ西海岸北部のシアトルで開業し、すぐシングルモルトに生産品目を絞る。同じシアトル市内のソードー地区に移転した2012年頃から、スコットランドの著名なウイスキー関係者たちが注目しはじめるようになった。ジャンルの新奇性ではなく、モルトウイスキーとしての純粋な品質に驚いたのである。 マスターディスティラーのマット・ホフマンが、創業の動機を振り返る。 「ケンタッキー州とワシントン州の距離は約2,000マイル。これはスコットランドからイスタンブールまでの距離に相当します。同じアメリカでも、それだけ風土や文化が異なるということ。大麦栽培が盛んなワシントン州で、シングルモルトウイスキーをつくることに迷いはありませんでした」 エディンバラのヘリオットワット大学で蒸溜学を修めたマットは、モルトウイスキーの本場であるスコットランドの伝統に敬意を抱いている。設備や工程も、標準的なモルトウイスキーの製造法に倣った。だがその反面、スコッチウイスキーを真似るつもりは毛頭ない。選んだのは、徹底して現地の風土と文化を表現する路線だった。 「私たちの土地が生み出したユニーク味を、偽りなく表現する。これこそがアメリカンシングルモルトをつくる意義に他なりません。テロワールに忠実であり、ごまかしがないこと。ここには特別な風味を持つ大麦品種があり、ユニークな樽材も調達できます」 ヨーロッパから北米に移住した人々は、故郷から持ってきた大麦がうまく育たないのでライ麦やコーンの栽培に転じた。でも現在のアメリカには、ワシントン州のような世界屈指の大麦栽培地帯だってある。グローバルコマーシャルディレクターのクリス・リースベックは言った。 「もしアメリカへの移住が西海岸から始まっていたら、アメリカンウイスキーの主流はシングルモルトウイスキーだったと思いますよ」 現在は全米でも数多くの蒸溜所がシングルモルトウイスキーをつくっているが、アメリカンシングルモルトというジャンルを確立すべく、スコットランドのSWAのような組織を立ち上げるためにウエストランドが筆頭となって活動している。140軒以上の蒸留所が参加する大きなムーブメントとなっているようだ。 モルトのフレーバーにこだわった新しい正統 マット・ホフマンいわく、モルトウイスキーの風味は3つの要素で決まる。1つめは大麦モルト。2つめは酵母と発酵。3つめが樽熟成だ。ウエストランドでは、このバランスを何よりも重視する。 「スコットランドでは、風味の80%が樽由来だと主張する蒸溜所もあります。でもそれはひとつの選択に過ぎません。ウエストランドでは、樽由来の風味は全体の45~50%程度が適当だと考えています。ビールメーカーが大麦に注目し、ワインメーカーがブドウに注目するように、まずは大麦の風味に徹底してこだわりたいのです」 このたびウエストランドが発売した3種類のウイスキーには、通常のペールモルトに加え、ローストした4種類のモルトを使用している。ペールモルト、ミュンヘンモルト、エクストラ・スペシャルモルト、ブラウンモルト、ペールチョコレートモルトの5種類を組み合わせ、彼ら独自のフレーバーを生み出す「モルトビル(バーボンのレシピはマッシュビルと呼ばれるため、モルトだけを使用するウエストランドらしい呼び方だ)」を作り上げている。このレシピはすべてのウイスキーのベースとなっている。 「ワシントン州はクラフトビールのブームが始まった場所なので、大麦の種類が多彩です。1万5千種もあるのに、ウイスキーにはほんの数種類しか使用されていません。だから潜在的な可能性は膨大なんですよ」 使用する酵母は、フレーバーで選んだビール用酵母のベルジャン・セゾン。完成時の風味のバランスにも優れている。大麦も酵母も、アルコール収率ではなく風味を重視している点がハードコアと評される所以だ。かといってスタウト用の酵母で個性を際立たせたりはしない。あくまでバランス至上主義なのである。 熟成はアメリカンオークの新樽を主軸に置く。だからオーク材の品質は極めて重要だ。彼らが使用するオークは、一般のバーボンバレル用オークよりもゆっくりと育つ晩成性のものだ。ウエストランドでは伐採後に18~24ヶ月ほど自然乾燥させることで、タンニンの影響を和らげている。ウイスキー業界では珍しいが、ワインやブランデーの樽では標準的な方法だという。ワシントン州は全米でカリフォルニア州に次ぐワインの生産地でもある。ここにも、テロワールの概念が生きている。 樽香が圧倒しすぎないよう、気温を含めて繊細な熟成環境を維持する。小樽で熟成を早めるような小細工はせず、モルトの味わいに樽香が統合される最高のタイミングを待つ。熟成期間は平均で4~5年ほどだ。スコッチに比べると短めだが、そんな先入観は味わった瞬間に覆されることになる。 3種類のシングルモルトをテイスティング さて待望のテイスティングだ。まずは「アメリカン・オーク」から。マットいわく、もっとも革新的で、もっとも重要な製品がこれである。 「アメリカンシングルモルトの可能性を、もっとも純粋に提示したウイスキー。最高に革新的な商品を、最前面に出すのがウエストランドの方針です」 香りはレモンやオレンジ風味のカスタードで、チョコレートのような印象もある。口に含むと、芳醇なフルーツ。アーモンド、バナナ、クリームなどの風味も華やかに広がる。5種類の焙煎をミックスしたモルトのふくよかさは圧巻だ。新樽のタンニンは驚くほど穏やかに抑制され、モルトと樽のエッセンスが見事に統合されている。 次の「シェリー・ウッド」も、同じく5種類のモルトを使用している。新樽とファーストフィルのバーボンバレルで3年ほど熟成した後に、シェリー樽でフィニッシュした原酒が50%。最初からシェリー樽に貯蔵したフルタイムのシェリー樽熟成原酒が30%。残りの20%はノンシェリー原酒という比率だ。シェリー樽は40~80年使用されたオロロソとペドロヒメネスの古樽をスペインから直送しているのだとマットが説明する。 「発酵までに得られるスピリッツの甘さは、オレンジマーマレードのような趣きがあります。シェリー樽で熟成すると、そこにレーズンや砂糖煮したトロピカルフルーツのような甘さが加わります。新樽原酒がダークチョコレートなら、シェリーカスクはミルクチョコレートのようなクリーム感。こんな違いを楽しむのも、モルトウイスキーの醍醐味ですね」 最後は「ピーテッド」だ。モルト原料の80%は前述の5種類で、残りの20%がスコットランドから輸入したヘビリーピーテッド(55ppm)のモルトである。熟成は70%が新樽で、30%がファーストフィルのバーボン樽。新樽のクリーミーな味わいも、ピート香と出会うことで柑橘のような風味が強調されている。 「ヘビリーピーテッドのモルトは、発酵時にレモンメレンゲやキーライムパイのような味わいを備えます。そこにピート香が混じり合うことで、甘みの質も変わってくるのです。ハウススタイルとピート香が融合すると、タバコやキャンプファイヤーのような印象が生まれます」 この3つのウイスキーは、紛れもなく世界のモルトウイスキーの最前線だ。アメリカらしい実験精神の果てに、驚くべき完成度を誇示している。西海岸北部のユニークな大地と文化を、ウイスキー自身が語っているのだ。 ウエストランドの挑戦は、まだ始まったばかりである。最近ではハーブ香の強いワシントン州産のピーテッドモルトも調達し、希少な現地産のオーク「ギャリアナ」で熟成した原酒も熟成中。すべての挑戦が、地域コミュニティーを巻き込んで実行されているのだとクリスは力説する。 「ここで新しい伝統を創始するには、消費者はもちろん、農家やサプライヤーなど地域全体への貢献が不可欠です。自分たちの成功によって、誰かが不利益を被るようなビジネスはしない。あなたが嬉しいのなら、私たちも嬉しい。これがアメリカ北西部の精神なのです」
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1週間だけのウイスキー旅行:北スペイサイド編(2)グレンバーギー蒸溜所
ベンロマックから一路東へ。大麦畑に囲まれたグレンバーギーは、世界的なブレンデッドウイスキーブランド「バランタイン」のキーモルトを生産する蒸溜所だ。 文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン 北スペイサイド地方に焦点を絞った今年の「1週間だけのウイスキー旅行」シリーズ。第2回はフォレスから国道A96を東へと走り、エルギンまでの距離の約3分の1(もっと正確にいえば約7km)ほどの場所を目指す。国道から細い道を右折すれば、グレンバーギー蒸溜所はその先にある。 グレンバーギーは世界第2位の売上を誇るブレンデッドウイスキー「バランタイン」ブランドの故郷とでも呼ぶべき蒸溜所である。通常は一般公開されていないが、何かのイベントにあわせて公開されるチャンスが巡ってくることもある。蒸溜所に到着すると、ペルノ・リカールのインターナショナル・ブランド・アンバサダーを務めるケン・リンジーが歓迎してくれた。1990年からバランタインを担当してきたベテランで、バランタインの原酒や蒸溜所について細部まで知り尽くしている。 「この場所で初めて蒸溜所が営まれた記録は、1810年にまでさかのぼります。つまりすでに200年以上もウイスキーをつくり続けてきた歴史がここにはあります。付近の平坦地には、かつてキルンフラット農場と呼ばれた畑がありました。田舎の小屋でスピリッツを蒸溜していた時代ですね。その蒸溜所はキルンフラット蒸溜所と呼ばれ、1871年以降はグレンバーギー=グレンリベット蒸溜所に改名されました」 蒸溜所の所有者は何度か変わっている。1936年にはハイラム・ウォーカーがグレンバーギー(と近所のミルトンダフ)を買収して、バランタインとの密接な関係が培われることになった。 しばらくの間、グレンバーギー蒸溜所は昔ながらの手作業を守っていた。だがアライド・ドメクがハイラム・ウォーカーを買収した1987年には、建物にかなりの老朽化が認められた。そこで2003~2004年に最新鋭の効率的な蒸溜所を新たに建設。19世紀から受け継がれてきた古い建物は大半が取り壊され、21世紀に相応しい設備を手に入れることができた。ケン・リンジーが振り返る。 「リニューアルには、全部で13ヶ月かかりました。工事期間中は生産できないので、あらかじめ休止前の6ヶ月間を増産期間にあてました」 2005年にペルノ・リカールがアライド・ドメクを買収。これによって、グレンバーギー蒸溜所はシーバス・ブラザーズの一員になった。シーバス・ブラザーズは、ペルノ・リカール最大のウイスキー部門である。 バランタインの心臓と呼ばれる理由 蒸溜所見学は、上階にある大麦モルトの保管庫からスタートする。蒸溜所の敷地や周囲の素晴らしい景観が眺められる場所だ(メイン写真参照)。小さな窓からケン・リンジーが外を眺め、興味深い新旧の施設について教えてくれる。 「中央にあるのが、1810年に建てられた古い酒税手続き所。2004年にできた機能的な蒸溜所のなかから、蒸溜所の古い歴史を眺めるのは感慨深いものです」 モルト保管庫の最上階にいると、ここが本当に田舎の只中であるという事実を再確認できる。周囲にあるのは、農場や大麦畑ばかりなのだ。ケン・リンジーが説明する。 「ノンピートの春大麦を、地元のモルティング業者から仕入れています。大麦はすべて半径40km以内で収穫されたものばかりです」 このあたりは農地の20〜30%が大麦畑なので、蒸溜所は大麦の一大生産地の中にあるといってもいい。大麦の重要性を強調するかのように、モルト保管庫のロフトにはさまざまな品種の大麦が展示されている。 「大麦なんてどれも大差ないだろうと思っている人も少なくありません。でもこのサンプルを見せるだけで、そんな先入観を取り払ってくれますよ」 家畜の餌として栽培される大麦もあれば、蒸溜所でウイスキーづくりに使用される大麦もある。どんな大麦からでもウイスキーがつくれるわけではない。 「大麦モルトが納品されるたびに、必ずここへサンプルを持ってきて最高品質であることを確認します。品質の一貫性は本当に重要。何しろグレンバーギーはバランタインのブレンドの心臓ですからね」 蒸溜所が建て替えられたとき、生産量はかつての年間250万Lから500万L(純アルコール換算)に倍増した。 「蒸溜所内では、160トンの大麦を保管できます。そして1バッチ7.5トンの大麦を毎週30回ずつ糖化しています。工場は3交代制で、シフトごとに1人のオペレーターが全行程を管理します」 蒸溜所はだだっ広いオープンプランの構造で、すべてがコンピューターで管理されている。ペルノ・リカールが所有する13軒のモルト蒸溜所のうち、12軒までがこんなスタイルだ。というよりもスコットランド全体がそんな傾向である。ペルノ・リカールで例外的に手作業を守っているのは、グレントファーズただひとつのみだという。 「グレントファーズは、社内でも研修用の工場として使われているんです。蒸溜所の技師として入社したスタッフは、全員がまずグレントファーズでウイスキーづくりの流れを理解してから他の蒸溜所で着任します」 グレンバーギーの話に戻そう。糖化工程でお湯が投入されるのは3回で、1度の糖化工程全体に約5時間半がかかる。56,000Lのお湯を加えて約54,000Lの麦汁を作り、これを19°Cにまで冷ましたら35,000Lを発酵工程へと送る。具体的には、12槽ある発酵槽のひとつである。 「以前は木製の発酵槽を使用していましたが、2004年に蒸溜所を建て直したときにステンレス製に代えました。液体タイプの酵母を加えて、52時間ほど発酵させます」 近年は画期的なシングルモルト商品も好評 新しい蒸溜所が建設されたとき、古い蒸溜所から引き継がれた数少ない設備が1組のポットスチルだった。それに加えて2006年5月には、さらに2組のスチルが新調された。現在、蒸溜室の片側には3基の初溜釜が並び、反対側に3基の再溜釜が並んでいる。 「目的はフルボディーのまろやかなスピリッツをつくること。そしてもちろん2004年以前と変わらない酒質を保てるように長い時間をかけて努力してきました。これもまたバランタインの心臓として、一貫性を重視しているからです」 ニューメイクスピリッツは、タンカーでキースの町に運ばれていく。ペルノ・リカールの蒸溜所でつくったスピリッツは、すべてキースで樽詰めされるのだ。樽詰めが済んだら、大半の樽は蒸溜所に送り返される。全部送り返さないのは、リスクを分散させるため。どこかの蒸溜所で緊急事態が発生したとき、熟成中の原酒をすべて失うような事態は避けなければならない。 「大多数のニューメイクスピリッツは、アメリカンオーク樽に詰められます。これがグレンバーギーらしいソフトで滑らかな味わいの秘密。クリーミーなバニラやキャラメルなどの風味も同様です」 ケン・リンジーが樽熟成について教えてくれる。蒸溜所の敷地には18軒もの貯蔵庫がある。ダンネージ式、ラック式、パレット式の融合だ。 「どんなときでも、当社は650万〜700万本の樽で原酒を熟成中の状態にあります。これはスコッチウイスキー業界全体の3分の1にあたる量なんですよ」 グレンバーギー蒸溜所は生産力に優れた蒸溜所で、ここでつくった原酒の98%がバランタインのブレンドに使用される。だから蒸溜所には、バランタイン関連の展示品も豊富だ。バランタインのウイスキーはもちろん、創業者のジョージ・バランタインに関する資料もある。ジョージ・バランタインがグレンバーギー蒸溜所を訪ねたことは一度もなかったが、この蒸溜所では彼の執務室が再現されている。テイスティングエリアの壁に飾られているかつての広告なども興味深い。 「バランタインは、ウイスキーをライフスタイルの一部として提案する広告を打った初めてのブランドだったんです。そのイメージはいつも現代的で、かつ都会的。バグパイプやキルトみたいな古いスコットランドのイメージではなく、サンモリッツでスキーをしたり、モナコでオートバイに乗ったりというイメージを提案してきました」 有名なバランタインのエンブレムには、ラテン語のモットー「Amicus Humani Generis(すべての人類の友)」が記されている。世界中で販売されているブレンデッドウイスキーに相応しいキャッチコピーといえよう。年間の販売量は750万ケース以上というから、世界で毎秒3本ずつ売れ続けている計算になる。グレンバーギーはその心臓ともいえる重要な原酒をつくってきたが、シングルモルトのブランドとしてはずっと無名だった。 「ここ2年間、バランタインのキーモルトをいくつか選んでシングルモルト商品として売り出しています。ある意味でバランタインのブレンドを分解し、その卓越した構成原酒にスポットを当てる試みです。消費者のみなさまに新しいチョイスを提案することで、バランタインというブランドへの信頼を高めていくことも重要。ブレンデッドウイスキーのブランドで、シングルモルトを発売するのはバランタインが初めてだと思います」 2017年7月には、バランタインブランドから15年熟成のシングルモルトが3種類発売された。ブレンドの基礎を固めるミルトンダフ、ブレンドの心臓であるグレンバーギー、魅力的なフィニッシュを加えるグレントファーズ。翌年の2019年6月には、スウェーデンで18年熟成のグレンバーギーも発売された。そして蒸溜所を訪ねた10月末の日に、ケン・リンジーは韓国からのゲストを迎え入れる準備中だった。ちょうど1週間前、韓国で「グレンバーギー12年」が新発売されたばかりなのだという。 スコットランドの10月末らしからぬ暖かい天候に恵まれ、ポカポカとした陽光を浴びながらグレンバーギー蒸溜所を後にする。ここから東へ国道A96を14kmほど進めば、エルギンの町に着くだろう。高級ウール製品で知られるジョンストンズ・オブ・エルギン、家族経営を守る独立系ボトラーのゴードン&マクファイル、それにグレンマレイ蒸溜所などがある町だ。 ゴードン&マクファイルには、美味しいサンドイッチが食べられるデリが併設されている。蒸溜所ツアーの合間に、手早くお腹を満たしたいのなら直行しよう。ウイスキーの冒険を続けるのに、ぴったりのランチとなること請け合いである。 (つづく)
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1週間だけのウイスキー旅行:北スペイサイド編(3)ロングモーン蒸溜所
北スペイサイドのウイスキー蒸溜所を巡るシリーズ。第3回は、エルギンの町を目前にしながらちょっと寄り道。竹鶴政孝にも縁の深いロングモーン蒸溜所に立ち寄ろう。 文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン ちょうどエルギンの町にたどり着いたところだが、エルギンの町を散策する前にちょっと足を伸ばしてみたい場所があった。国道A941で5kmほど南に行くと、そこにはロングモーン蒸溜所がある。ロングモーン蒸溜所に到着する直前、すぐそばにベンリアック蒸溜所があることにも気づくだろう。この2軒の蒸溜所には、歴史的にも密接な関係がある。 スペイサイドのように多くの蒸溜所が点在している地域では、どこかで訪問先を絞り込む決断が必要になる。「せっかく行ったのにエリア内の蒸溜所を踏破できなかった」などと否定的にとらえてはいけない。今回行けなかった蒸溜所は、次回のためにあえて残しておくのだ。今回の旅程から外すのは、「またこの町に戻っくるため」と前向きに考えよう。ここから半径数km以内には、グレンエルギン蒸溜所、マノックモア蒸溜所、グレンロッシー蒸溜所もある。これだけの数が揃えば、再訪の口実にもまったく事欠かない。 一般公開してないロングモーン蒸溜所をわざわざ目指したのは、日本とのつながりを重視したからである。1919年4月、ここで若き日の竹鶴政孝がインターンとして働き、ウイスキーづくりの技術を学んでいった。ノートに書き留められたさまざまな気付きが、後にジャパニーズウイスキーの歴史を始動させる種子となったことはご存じのとおりである。 スコットランドの蒸溜所としては珍しく、ロングモーンは不況などで休業に追い込まれた時期がない。創業以来、絶え間なくウイスキーをつくり続けてきた数少ない蒸溜所のひとつなのだ。当時の竹鶴政孝が100年後の蒸溜所を訪ねたら、その連綿たる時の流れとウイスキーづくりの変遷に驚くことであろう。 竹鶴政孝が100年前に研修 ロングモーンが設立されたのは1893年のこと。創設者のジョン・ダフは、19世紀のウイスキー業界でも特に個性的な人物だ。グレンドロナック蒸溜所の蒸溜所長を務め、1876年には新しい会社を設立してグレンロッシー蒸溜所を設立。さらには南アフリカでもウイスキー蒸溜所の設立を志したが失敗し、アメリカに渡ってさらなる挫折を味わった。それでもチャレンジ精神に富んだジョン・ダフは、スコットランドに戻ってロングモーン蒸溜所の設立に漕ぎ着けるのである。 理想的なロケーションを見つけたジョン・ダフは、当時最先端の設備を網羅した蒸溜所を建設した。ここは当時開通したばかりのグレート・ノース・オブ・スコットランド鉄道にも程近く、豊かな水源にも恵まれている。レアック・オ・マレイ産の良質な大麦が手に入り、マノックヒルから掘り出されるピートも調達が容易だ。さらには大きな水車が蒸溜所に必要な動力も提供してくれる。そんな便利な条件がすべて揃った土地柄だった。 外国では幾度も辛酸を嘗めてきたが、ジョン・ダフはこのロングモーン蒸溜所を首尾よく軌道に乗せた。そして1898年には隣の敷地に第2ロングモーン蒸溜所を建設(後にベンリアックと改名)。だが運もそこまでで、ジョン・ダフは再び苦境に見舞われる。1898年に悪名高いパティソン事件が起こると、スコッチウイスキー業界全体の信用が失墜。ジョン・ダフも借金で首が回らなくなり、次いで起こったウイスキー不況の最中に破産してしまった。 1899年にロングモーン蒸溜所を買い取ったのは、ジェームズ・R・グラントとエディンバラのブレンダー、ヒル・トムソンだった。新しいオーナーのもとで、蒸溜所は引き続き活躍の場を取り戻す。ロングモーンの原酒は、高級なブレンデッドウイスキー用の華やかな一要素として珍重された。 時は過ぎて1970年。グラント家とヒル・トムソンは、グレンリベット蒸溜所やグレングラント蒸溜所と合併してグレンリベット・ディスティラリーズを設立した。このグレンリベット・ディスティラリーズは、1977年にシーグラムの傘下となる。2001年にペルノ・リカールがシーグラムのウイスキー部門であるシーバスブラザーズを買収したため、ロングモーンは現在もシーバス傘下の蒸溜所である。 ロングモーンでは、蒸溜所の長い歴史の一端を垣間見ることもできる。例えば蒸溜棟には、1890年代に製造された古い蒸気エンジンが残されている。もともとは大きな水車の補助として導入された設備で、1979年までは30〜40馬力のパワーを蒸溜所に供給していた。初溜釜の内部を撹拌する動力として重用されていたこともある。 蒸溜所の屋外に出ると、そこには古めかしい小さな駅舎が残されている。この駅は1968年に閉鎖されてしまい、その後はウイスキーの原料も車で運ばれてくるようになった。駅舎そのものは蒸溜所がきれいな状態で保存しているので、ロングモーンまで行くのならぜひ見学しておきたい建物である。最近発売されたロングモーンのオフィシャル商品は、蒸気機関車を描いたロゴが目印だ。ロングモーンの長い歴史において、一時は重要なライフラインを務めた鉄道へのオマージュである。 蒸溜所の建物と設備は、竹鶴政孝が滞在した時代からかなり様変わりしている。いま竹鶴がここを再訪しても、時代の流れに驚くばかりかもしれない。蒸溜所のポットスチルは、1972年に2対から3対に増やされた。かつて直火式だった再溜釜が、スチーム式に改造されたのもそのときである。 またスチルを新調する2年前には、フロアモルティングも廃止された。それでも一部のモルティング業務は、姉妹蒸溜所のベンリアック蒸溜所で継続されている。ポットスチルは再び1974年に増設され、合計で4対になった。もともと蒸溜所が手狭だったことから、蒸溜棟は2箇所に分かれている。そんな訳で、ロングモーンは初溜釜と再溜釜が別々の部屋に設置された数少ない蒸溜所というトリビアもある。 かつて樽詰めがおこなわれていたエリアには、現在4基の再溜釜が置かれている。1994年に初溜釜がすべて石炭直火式からスチームコイル式に変更された。竹鶴政孝が滞在した当時のロングモーンで、どんなウイスキーがつくられていたのかを明確に知る手がかりは少ない。ロングモーンの1970年以前のビンテージがあればいいのだが、入手はかなり難しい状況だ。 歴史ある建物と近代的な設備 ロングモーンでは2012年に大掛かりな設備の改修がおこなわれ、糖化槽と発酵槽が新調された。ペルノ・リカールのケン・リンジーが、蒸溜所の内部を案内してくれる。設備から受けるロングモーンの印象は、とても近代的な蒸溜所であるということ。フル稼働中なのに、不思議なくらい静かである。 「蒸溜所はすべてコンピューター管理なので、2人だけで生産を監視しています。メインのオペレーターは糖化槽の近くにあるコンピューターの後ろに座っていますが、もう1人のオペレーターは色々動き回って細々とした雑用をこなしていますよ」 ケン・リンジーがそう説明する。糖化槽は、極めて効率的なブリッグズ社のフルロイター式。グレンリベット蒸溜所やグレンキース蒸溜所で使用されているものと同型なのだという。 「以前の糖化槽は容量8トンでしたが、数年前に8.5トンに拡張されました。糖化には5時間かけて、1バッチの量が蒸溜釜の容量にも対応しています。発酵槽はステンレス製が10槽。1層に39,000Lの麦汁が入って、発酵時間は約50時間です」 最初の蒸溜棟にはタマネギ型の初溜釜が4基あるが、1基ごとの容量は17,000L弱である。再溜釜4基とスピリッツセーフは別の部屋にある。再溜釜は3基が容量約15,000Lで、残りの1基はそれよりもやや小さい(約13,600L)。蒸溜所の敷地内にダンネージ式の貯蔵庫が数棟あるものの、ロングモーン蒸溜所で生産されたスピリッツは現在すべてキースとマルベンの町にタンカーで輸送される。ペルノ・リカールが運営する巨大な貯蔵施設で熟成されるのだ。 ロングモーンで生産されるウイスキーは、長年にわたって高い定評があった。多くのディスティラーが、2番めに好きなウイスキーとしてロングモーンを挙げている。第1位はもちろん自分自身のウイスキーなので、プロフェッショナルたちからの大きな尊敬を裏付けるデータだ。 ブレンダーたちも同様に、ロングモーンの品質を創業期から高く評価してきた。そんな背景も手伝って、原酒のほとんどはブレンデッドウイスキー用に確保されている。ロングモーンのモルト原酒は、多くがシーバスリーガルやロイヤルサルートのキーモルトになる。オフィシャルのシングルモルトは非常に希少だ。1993年に15年ものが発売され、これが2007年にはペルノ・リカールの意向で16年ものに変更。今この原稿を書いている時点で「ディスティラーズ・チョイス」と名付けられた16年ものと23年もののボトルが存在するのみである。 エルギンの町に戻る前に、蒸溜所の周辺を少し散歩してみよう。竹鶴政孝が100年前に見た風景を想像し、その歴史的な経験に思いを馳せてみるチャンスだ。蒸溜所内部の設備はかなり近代化されてしまったが、屋外に出ればスコットランドの田舎そのもの。古い建物を眺めながらそぞろ歩くと、20世紀初頭の風景をありありと思い起こすこともできるだろう。 (つづく)
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1週間だけのウイスキー旅行:北スペイサイド編(4)グレンマレイ蒸溜所
北スペイサイド地方に焦点を絞った今年の「1週間だけのウイスキー旅行」シリーズ。第4回はエルギンの町の中心へと向かい、グレンマレイ蒸溜所を訪ねよう。 文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン グレンマレイ蒸溜所の所在地は、もともとエルギンの町の外側にあり、そばには刑場の絞首台が並んでいるような場所だった。だが今では町の発展に飲み込まれ、中心地から徒歩10分ほどの場所で住宅地に囲まれている。 正午過ぎに到着すると、蒸溜所のカフェは多くの人々で賑わっていた。グレンマレイのビジターセンター長とグローバルブランドアンバサダーを兼任するイアン・アランが説明する。 「ウイスキー観光の訪問客ではなく、みんな地元の人ですよ。ここでコーヒーを飲みながら、おしゃべりを楽しんでいるんです。おかげさまで、蒸溜所はすっかり地域の人々の生活の一部にもなっています」 グレンマレイの歴史を遡れば、1820年代に設立された農場にたどり着く。1860年代になると、その農場がビール醸造所に建て替えられた。水と動力は、流れの速いロッシー川から十分に得られた。そして19世紀末のウイスキーブームが到来すると、ビール醸造所は蒸溜所に改築される。ウイスキーづくりの歴史を、イアン・アランが説明してくれた。 「最初のスピリッツが蒸溜されたのは1897年9月13日。でも他の多くの蒸溜所と同様に、グレンマレイも20世紀初頭のウイスキー不況で苦しみました。1910年に閉鎖された後、グレンモーレンジィ蒸溜所を所有するマクドナルド&ミュアに買収される1923年まで再開できなかったのです」 時は流れて21世紀。2004年に、グレンモーレンジィ・カンパニーはフランスの高級ブランドグループであるLVMHに買収された。だがグレンマレイは、LVMHのポートフォリオに不適格であると判断されてしまう。なぜなら当時のグレンモーレンジィ・カンパニーはグレンマレイを「格安モルト」に位置づけており、スーパーマーケットでブレンデッドウイスキー並みの安さでシングルモルト商品を販売していたからだ。この販売方針のせいで、グレンマレイのイメージは傷ついた。 「LVMHは2008年にグレンマレイをフランスのラ・マルティニケーズに売却しました。当時のラ・マルティニケーズはモルトウイスキー蒸溜所を所有していませんでしたが、ブレンデッドウイスキー世界第9位の『ラベル5』で知られています。だから、誰もがこう考えました。グレンマレイ蒸溜所を買収したのはブレンデッド用のモルト原酒を調達するためで、グレンマレイはシングルモルト市場から消え去ってしまうだろうと」 だが幸いなことに、ラ・マルティニケーズには別の計画があった。グレンマレイのブランドイメージを高めるべく、買収後2回にわたって大規模な拡張工事をおこなったのだ。 「最初の拡張工事は2012年。生産量が純アルコール換算で年間220万Lから330万Lに増えました。使えるスペースはこの工事であらかた使ってしまったので、2017年に再び拡張工事をしたときには新しい建物を建設しました。この2回目の工事によって、純アルコール換算で年間600万Lのスピリッツが生産可能になります。そして2019年から24時間の無休体制にしたことで、初めて年間600万Lの大台を達成することができたのです」 新旧の設備を折衷した合理的な生産拠点 現在の蒸溜所は、新旧の設備が入り混じった面白い光景だ。昔ながらの設備もあれば、改修された設備や完全に新しい設備もある。普通の常識からは逸脱した発想も多く、数多くの蒸溜所を訪ねたウイスキーマニアでも十分に楽しめるユニークな工夫にあふれている。イアン・アランは「変わり種という点では、他の追随を許しませんからね」と冗談めかして言う。 最初に案内されたモルト貯蔵庫は、古い設備の代表だ。グレンマレイは1978年まで自前の製麦をおこなっていたため、もともとモルトビンの収容力も十分だった。そのため2回にわたる拡張工事でも、新しいモルトビンを追加する必要はなかったのである。現在ここにはモルトビンが12槽あるが、そのうち8槽しか使用されていない。訪問時には、ノンピートのコンチェルト種を原料にしていた。通常なら年間に2週間のみヘビリーピーテッド(50ppm)のモルト(大半がブレンド用)による仕込み期間があるが、2019年にはピーテッドモルトのスピリッツを蒸溜しなかったのだという。 ポーテウス社製のミルは4ロール式で、これもまた昔ながらの設備である。イアン・アランが、粉砕から糖化に至る工程について説明する。 「糖化は1日に4回。1回あたり11トンの大麦モルトを使うので、1日の粉砕量は44トンという計算になります。粉砕の所要時間は、1バッチあたり約4時間半。糖化は約5時間で、お湯はロッシー川の水を使います」 お湯の投入は、一般的な3回だ。1回目が64°Cで40,000L 。2回目が75°Cで20,000L。この2回で約55,000Lの麦汁が得られる。3回目のお湯は85°Cで40,000Lが投入され、そのまま次のバッチの1回目になる。 糖化はすべて糖化槽(マッシュタン)第1号でおこなわれるが、2015年12月まで使われていた古い糖化槽第2号も引退はしていない。必要が生じたときには使用できる状態にあるのだとイアン・アランは言う。 「さらに増産が必要になったときにも対応できるよう、将来を見越して蒸溜所を設計しています。2層の糖化槽を使用すれば、純アルコール換算で年間で300万Lの増産も可能。つまりその気になれば、年間900万Lという生産量も見込んで設計されているです」 通常の蒸溜所なら、発酵槽の場所は糖化槽に近接している。糖化の次は発酵だから当然だ。だがグレンマレイは違う。2016年に製麦所を解体して新設された生産エリアでは、新しい糖化槽第1号が3基の初溜釜と同じ部屋にある。 「一見すると奇妙な構造に思えるでしょう。でもこの変則的な配置には、ちゃんと理由があるのです」 イアン・アランが説明する。初溜釜にはいわゆる再沸器(リボイラー)と呼ばれる熱交換器が付設されていて、蒸溜時の熱とエネルギーを糖化工程でも利用できるのだ。これによって、年間で約40%ものエネルギー消費が節約できるのだという。 それでは、本来ここにあるはずの発酵槽はどこにあるのだろう? 「以前は屋内に4槽の発酵槽がありましたが、いつも発酵が工程上のネックになっていたんです。そこで2012年に6層の新しい発酵槽を屋外に設置しました。2016年には2回めの拡張工事でさらに8槽の発酵槽を屋外に追加して、屋内にあった4槽の発酵槽は引退させました。そのときに44時間だった発酵時間を65時間に延ばし、スピリッツにリッチな風味も加えています」 発酵槽は外部と絶縁されているものの、温度を調整する機能はない。発酵に最適な温度は18°Cなので、夏には18°Cにまで冷やした麦汁をポンプで送る。冬は外気との差を考慮して22°Cで送られる。 屋内の古い発酵槽は廃棄されていない。お湯を溜めておく容器や、初溜液(ローワイン)を一時的に溜めておく容器に改造されている。生産工程で問題が発生したり、メンテナンスなどによって一時休止が必要になったときは、3日分の初溜液をこの容器に溜めておくことができる。再溜の直前に、3日間の猶予が許容されるのである。 その再溜釜は、すべて同じ部屋に収められている。コンデンサーがあるのは屋外だ。目ざといビジターなら、再溜釜のサイズや形状がまちまちで、一部にはのぞき窓が付いていることに気づくだろう(のぞき窓は主に初溜釜用の設備であり、再溜釜に付いているのは珍しい)。 「2017年までは、ここが蒸溜棟でした。初溜釜と再溜釜が3基ずつ置かれていたのです。その蒸溜釜は、現在すべて再溜釜として使用されています。蒸溜はヘッドが30分、ハートが2時間半(アルコール度数で74〜64%)、残りがテールという配分です。興味深いことに、ハートの2時間半でスピリッツの特性も変化します。全体としてはフルーティーですが、かなりオイリーな面も持ち合わせた万能なスピリッツ。少ない熟成年でもバランスがとれ、さまざまな樽で長期熟成しても個性が際立ちます」 バーボン樽を主体にさまざまな後熟も併用 ハートで取り出すスピリッツは、アルコール度数が平均で69%。これを63.5%になるまで加水してから樽詰めする。スピリッツの約3分の2はブレンデッドウイスキー用で、残りの3分の1がグレンマレイのシングルモルトになる。ブレンデッド用もシングルモルト用も、原酒はすべて蒸溜所内で熟成される。 「約80%のニューメイクスピリッツは、バーボン樽に詰めています。残りはさまざまなタイプと大きさの樽に入れて、原酒のバリエーションを増やします」 グレンマレイは、ワイン樽フィニッシュを採用した先駆的な蒸溜所のひとつである。ワイン樽フィニッシュは、グレンモーレンジィ・カンパニーの傘下だった1999年に始まった。実験的な意味合いが強かったが、当時のオーナーにはこのような実験の成果を商品化する方法もなかったのだという。 「ラ・マルティニケーズの傘下に入ってからも実験を継続しました。以前と違うのは、変わり種の原酒を商品化できるルートがあること。現在では幅広いウイスキーが販売されており、グレンマレイのコアレンジだけでも15種類があります」 蒸溜所の敷地内には、10棟の貯蔵庫がある。ダンネージ式とパレット式の両方で、新しい貯蔵庫を2棟(各27,000本の樽を収容)も建築中だ。蒸溜所内では現在約130,000本の樽が原酒を熟成している。 ビジターセンターに戻ると、イアン・アランがウイスキーボトルを用意してくれた。コアレンジでさえ種類が豊富なので、テイスティングの対象は厳選しなければならない。 「まずはフラッグシップボトルの『グレンマレイ12年』をどうぞ。まさにスペイサイドを体現したような味わいで、グレンマレイ蒸溜所の典型的な特性を表現しています。中身はバーボンバレルの熟成原酒ですが、ファーストフィル、セカンドフィル、サードフィルがそれぞれ6:3:1という比率でヴァッティングされています」 定番品の次は、2019年8月に発売された新商品「グレンマレイ21年」も味わってみる。 「バーボン樽で19年熟成し、その後2年間にわたってポート樽でフィニッシュしました。実は親会社が世界最大のポート生産者なので、ポート樽は原産地から直接取り寄せられる有利な環境にあるんです」 何種類か素晴らしいウイスキーをいただいた後で、壁にはめ込んだ3本の樽に気がついた。イアン・アランが説明する。 「2007年から、ビジターセンターで始めた新しい試みです。ビジターの方々が、自分の手で樽からボトリングできるサービス。せっかく蒸溜所に来たのだから、何か特別なものを持ち帰っていただきたいという願いから始まりました。最初は樽1本でスタートして、現在は常に3本をご用意しています。熟成年の若いウイスキー、長期熟成のウイスキー、それにピートの効いたウイスキーがあるので、お好みや予算に応じてお選びいただけます」 ピートの効いた原酒は、グレンマレイの中でも比較的新しい原酒だ。ピーテッドモルトを原料にしたスピリッツを蒸溜し始めたのは、2010年以降のことである。今回は2014年からワイン樽で熟成されているピーテットモルト原酒を味わった。他には2008年のノンピートモルトをライウイスキーの樽で熟成した若い原酒と、2001年のノンピートモルトをセカンドフィルのオロロソシェリー樽で熟成した長期熟成原酒がある。 ウイスキーの旅は、行く先々でさまざまな掘り出し物が予想される。だから欲張りな旅行者は、荷物の空きスペースにも常に気を配っておかなければならない。北スペイサイドの冒険はまだまだ続く。 (つづく)
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1週間だけのウイスキー旅行:北スペイサイド編(5)ストラスアイラ蒸溜所
エルギンからさらに東へ移動し、ひなびたキースの町へ。ここには絵葉書のように美しいストラスアイラ蒸溜所がある。 文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン 北スペイサイド地方に焦点を絞った「1週間だけのウイスキー旅行」シリーズも今回で5回目。エルギンから東に移動して、こぢんまりと魅力的なキースの町にやってきた。この町には数軒の蒸溜所があるが、まずはストラスアイラを目指そう。 2つのパゴダと水車を擁するストラスアイラは、絵葉書のように美しい蒸溜所として知られている。伝統的なスコットランドの蒸溜所そのものといった光景で、間違いなくスコットランドで屈指のフォトジェニックな蒸溜所である。過度に演出された美しさではなく、まさに歴史的な美観だ。実際にストラスアイラは、スコットランドで公式に酒造免許を取得した最古の蒸溜所として知られている。 もともと蒸溜所の敷地には地元の修道院があり、ビール醸造所が併設されていた。それが1786年に蒸溜所に改装され、蒸溜酒の酒造免許を取得した。当時の蒸溜所の名称は「ミルタウン」で、それが後に「ミルトン」に改名される。蒸溜所は1800年代に何度か売却されてオーナーが変わり、名称も幾度となく変更された。1870年には「ストラスアイラ」という名前になったが、1890年には「ミルトン」に戻され、そして1951年に再び「ストラスアイラ」に落ち着いたのである。 1940年代になると、ジェイ・ポメロイなる悪漢が大株主となって、蒸溜所の経営を乗っ取った。だがほどなく脱税で監獄行きとなり、会社も1949年に倒産してしまう。その1年後、競売にかけられた蒸溜所をシーグラムが首尾よく購入した。2001年からはペルノ・リカールの所有となっている。 古き良き蒸溜所の内部を歩く ストラスアイラ蒸溜所を訪ねる理由はたくさんある。小さな黒板にスタッフが手書きした細かな生産データを見るだけでも、ウイスキーおたくを自認する諸氏にとっては貴重な体験となるだろう。このような古風なチョークと黒板が、さまざまな工程でたくさんの部屋に掲げられているのだ。例えば粉砕室では、今日のバッチで使うグリストの詳細が記されている。同様に糖化室の黒板を見れば、4回の糖化工程で投入されるお湯の詳細がわかるといった具合だ。 ストラスアイラ蒸溜所では、1回のバッチで5.12トンの大麦モルトが使用される。糖化は銅製の天蓋が付いた伝統的な糖化槽でおこなわれ、1回あたり約6時間かかる。つまりフル稼働で1日4回の糖化が可能だ。発酵の時間は54時間である。発酵槽もすべて伝統的な木製だ。内訳はベイマツ製が7槽とカラマツ製が3槽という組み合わせになっている。 初めて訪れる者にとって、蒸溜所の内部は迷路のように複雑だ。蒸溜棟は窮屈だが魅力的な光景である。もともと1対のポットスチルで蒸溜していたが、1965年にもう1対が追加された。もうスペースに余裕がないので、ここでさらにスチルを増やすのは不可能であろう。 スチルはみな背が低くずんぐりとした形をしている。2基の初溜釜はランタン型で、ラインアームは下向きだ。だが再溜釜の方にはボイルボールが付いていて、ラインアームもやや上向きになっている。生産量は純アルコール換算で年間約250万L。ニューメイクスピリッツはすべてタンカーで持ち出され、巨大なシーバスの貯蔵庫で樽詰めがされる。 ストラスアイラは、世界第4位の売上を誇るブレンデッドウイスキー「シーバスリーガル」のキーモルトである。そのためシーバスリーガルブランドの本拠地という位置付けも明確だ。シーバスリーガルで発揮される卓越したブレンディング技術が、ビジターセンターではひときわアピールされている。 もともとビジターセンターには古風な趣きがあったが、2018年に改装されて現代的なムードも漂うようになた。併設されたバーではウイスキーをグラスで楽しめるが、多彩なカクテルでシーバスリーガルの万能性を実感することもできる。それぞれのボトルが、巧みなミックスによって洗練された表現を見せてくれるのだ。このアプローチは、ウイスキー愛好家に付き合って蒸溜所までやってきた来客(ウイスキー以外のドリンクも好きな人々)にとって好ましいものであろう。 シーバスブラザーズの歴史をたどる 美しい内装の「シーバスルーム」でくつろぐ。薪がパチパチと燃えている暖炉のそばでウイスキーを何種類か味わおう。シーバスブラザーズでインターナショナルブランドアンバサダーを務めるケン・リンジーが、シーバスの歴史について説明してくれる。 「1801年に、ジョン・フォレストがアバディーンでワインと食料品の販売店をオープンしました。この事業にジェームズ・シーバスが1838年から参画して、弟のジョン・シーバスも後から引き入れます。シーバス兄弟は、ビクトリア女王と交流がありました。女王は1842年からスコットランドで夏休みを過ごすようになり、翌年にはシーバスブラザーズを王室御用達に認定したのです」 生産効率に優れたグレーンウイスキーが1860年代からつくられ始めると、シーバス兄弟はブレンディンングの先駆者となった。そして1909年には高級ブレンデッドウイスキー「シーバスリーガル」を発売。ケン・リンジーが当時のいきさつを解説する。 「最初に発売されたのは、25年熟成のウイスキーでした。売れ行きは好調だったのですが、第1次世界大戦と米国の禁酒法でウイスキー業界が打撃を受けます。1938年になってシーバスリーガルが復活しますが、このボトルは熟成年数は12年でした。1997年にマスターブレンダーのコリン・スコットが18年熟成のシーバスリーガルをつくり、ブランド誕生100周年を控えた2007年には25年熟成の商品をコアレンジに加えました。それまでシーバスリーガルには3種類のボトルしかなかったのですが、2007年に以降は新商品が11種類も開発されて忙しい時期が続いていたんです」 シーバスリーガルの全ラインナップを試してみたいなら、ストラスアイラ蒸溜所のフィールドデイに合わせて訪ねるとよいだろう。お楽しみは他にもある。ブレンディング・ラボでは、訪問者が自分自身の手でウイスキーのブレンディングを体験できるのだ。これはモルトとグレーンの原酒5種類のウイスキーをテイスティングし、自分なりの配合でレシピを考案するというもの。楽しい試行錯誤を繰り返しながら、200mlのボトルに自分のブレンドを詰めて家に持ち帰ることができる。 また貯蔵庫の一角には「シーバスリーガルセラー」というコーナーがあり、いくつかの樽にさまざまな熟成年のシーバスリーガル(最長で25年)が詰められている。ここでは長期熟成のストラスアイラを樽から直接出してテイスティングもできる。 ビジターセンターでは、500ml瓶で蒸溜所限定商品も販売されている。ストラスアイラ蒸溜所だけでなく、シーバスブラザーズ傘下が所有する他の蒸溜所の商品も豊富だ。現在稼働中の蒸溜所はもちろん、閉鎖された蒸溜所のウイスキーも並んでいる。我々が訪問した際は、シェリー樽熟成のスキャパと、キャパドニックのシングルカスク商品2種類が人目を引いていた。 ストラスアイラ蒸溜所を訪問する前後にキースの町でのんびりしたいのなら、町の中心部にある「ブギウギ」という店がおすすめだ。ナイトクラブのような名前だが、実際には居心地のいいカフェにギフトショップが併設された場所である。いつも地元民(多くは年配の女性)で混雑しており、料理の味もお墨付き。ここでは人生最高の「カレンスキンク」が味わえるという評判だ。鱈のスモーク、じゃがいも、玉ねぎなどが入った地元の濃厚なスープ料理である。 次の目的地までは、わずか数百メートルという近さである。ストラスアイラの姉妹蒸溜所として知られるグレンキースで再会しよう。 (つづく)
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ふたつのグラント家【前半/全2回】
グレンフィディックとグレンファークラスは、共に旧来の家族経営を守り続けている希少なウイスキーブランドだ。その成り立ちと成功の秘密を探る2回シリーズ。 文:グレッグ・ディロン 「ファミリービジネスに関わることは、単なる仕事を越えた栄誉。一生懸命働いて自分の道を切り開いてきましたが、こんなに素晴らしく、ダイナミックで面白い業界で働けた幸運に感謝しています。日々の仕事でこんな素晴らしい特権を忘れることもありますが、事業を営むファミリーや古い仲間たちの情熱、責任、献身で成り立っている仕事に違いありません。このような精神とプライドを共有できることには希少な価値があります。そして私たち家族の精神は、間違いなくウイスキーの品質に反映されているのです」 ウィリアム・グラント&サンズで米国の商業戦略部長を務めるカーステン・グラント・メイクルの言葉である。 多くのウイスキーブランドが、家族経営で事業に乗り出した過去を持っている。蒸溜所のスタートが家族経営であることは珍しくない。農場経営や地元の食料品店などが事業拡大でウイスキーづくりに進出し、その過程で多くの蒸溜所が建設されている。しかし何代にもわたって経営を受け継ぐうちに経営者が変わり、買収されたりしながら大規模なウイスキー会社の傘下に入ることになる。そんな一般的な歴史が当てはまらないブランドが、グレンフィディックとグレンファークラスである。 グレンフィディック蒸溜所は、伝説的なウィリアム・グラントと息子たちによって1887年に創設された。そして現在に至るまでずっとグラント家の手で経営を受け継がれている。初代のグラント家はかなりの大家族で、7人の息子と2人の娘がいた。そのため寒い冬でも蒸溜所を建設する人手には事欠かず、当初の予定通りクリスマスの日に最初のスピリッツを蒸溜できたという創業時の逸話がある。 家族経営ならではの独創と革新によって、ブレンデッドスコッチウイスキーのブランド「グラント」が成長する。商品の売上もますます好調になり、1957年にはウィリアム・グラントの曾孫にあたるチャールズ・ゴードンが後を継ぐ。彼がおこなった改革によって、蒸溜所はより伝統的なウイスキーづくりへと回帰することになった。蒸溜所内で樽職人と銅職人を雇っている方針も当時の決定に基いている。この大変革を受け継いだサンディー・グラント・ゴードンは、まだ人気も定着していないシングルモルトに力を入れ始めた。グレンフィディックは、スコッチウイスキーメーカーのなかでも最初期にシングルモルトを売り出したブランドのひとつである。 自身の一族の物語を説明するカーステン・グラント・メイクルは、言葉の端々に家業を受け継ぐ誇りをにじませている。 「創業者のウィリアム・グラントは、私のひいひいおじいちゃんにあたります。自分の夢を実現するため、46歳でゼロから新しい事業を立ち上げた勇気は見上げたものです。蒸溜所建設は、煉瓦をひとつずつ積み上げるような本当の手作業でした。その勇敢な開拓者精神は、何代にもわたって一族に受け継がれています」 いつも時代を先取りする考え方が、事業の成功を後押ししていたのだとカーステン・グラント・メイクルは強調する。 「たとえば売上が落ち込んでいた禁酒法時代に、グラント・ゴードンは会社を説得して減産ではなく増産に踏み切らせました。この判断が後に功を奏し、1930年代初頭からの大幅な需要増に応えることができたのです。私の叔父にあたるチャールズとサンディーも、そんな開拓者精神を受け継いでいました。シングルモルトウイスキーという分野自体、実質的にサンディー・グラント・ゴードンが確立したと言ってもいいでしょう。1963年には国外でグレンフィディックのマーケティングを展開しましたが、これもまた他の蒸溜所がやったことのない試みでした」 グレンフィディックは、常にイノベーションという言葉を体現してきたブランドのひとつだった。蒸溜所に初めてビジターセンターを併設したのもグレンフィディック。ボトルデザインに関しても、丸みを帯びた三角形のデザインをグレンフィディックとグラントのラインナップに初採用した(古いバルヴェニーでも採用されたことがあるので、見つけられた人はラッキーである)。シングルモルト「グレンフィディック15年」にソレラ樽のような熟成システムを採用したのも独自のアイデアだった。 今もなお受け継がれる開拓者精神 グレンフィディックでは、現在もなお開拓者精神が色濃く残っており、新しいアイデアは高く評価されてイノベーションへの志向も推奨される。カーステン・グラント・メイクルが語る。 「新しいことを機敏に取り入れて、独立心を大切にすることで、最終的には面白い画期的なプロジェクトがどんどん生まれてきます。このような考え方を基本に、他社とは異なるアプローチを大切にしているのです。長期的な視野に立ってレースに参加する私たちは、ウサギよりも亀が最終的に勝利することを信じています。比類のないウイスキーの原酒ストックを大切に守っているのも、そんな価値観で未来を展望しているからです」 苛烈なまでに独立を志向するグレンフィディックにとって、創業者一族が経営に関わることは成功の秘訣でもある。株主の要求とは異なる決断をできることが大切なのだ。競合他社のやり方は違う。外部の個人投資家や機関投資家たちの言いなりになって、あらゆる決断に説明を求められる。株価や収益を気にして短期的な目標を達成するよう焦らされ、さまざまなコスト削減も迫られる。 「事業の独立性を保つことは、一族にとっても極常に最優先事項として意識されています。私は5代目にあたりますが、次の6代目の世代のファミリーメンバーもそれぞれのユニークな役割を生み出して、本格的な経営に参画を始めているところです。次の世代がファミリービジネスにしっかりと関与していくのは重要なこと。私たちが本質的に次世代に向けてブランドを守る保護者の役割を担っているからです。それは次世代のグラント家だけでなく、次世代のシングルモルト愛好家に対する責任でもあります。彼らが素晴らしいシングルモルトウイスキーと出会えるように、長期的な準備をしておく必要があるのです」 カーステン・グラント・メイクルは、さらに詳しく家族経営の利点を力説する。 「経理上のことを考えると、創業家としての判断が必ずしも他の株主全員に納得できるものであるとは限りません。でも本当に大切なのは、私たちがつくるウイスキーの品質と一体化した経営上の決断です。例えば自前の樽工房を維持していることで、外部に発注するよりもコストがかかります。グレンフィディックは、現在もまだこの伝統を守っている極めて少数の蒸溜所のひとつ。なぜこのような事業を続けるのかといえば、私たちがつくるウイスキーの品質には、良質な樽が不可欠だから。家族経営を続けることは、仕事のやり方すべての核となっています。その違いこそが、私たちのウイスキーを他のブランドから際立たせているのです」 (つづく)
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ふたつのグラント家【後半/全2回】
グレンフィディックとは異なるアプローチで、着実に名声を手に入れたもうひとつのグラント家。グレンファークラスの現在は、ある失敗への反省から築かれていた。 文:グレッグ・ディロン 「家族経営の会社には、とても有利なことがあります。それは決断と行動が早く、新しい状況にすぐ適応できること。即断即決でチームを動かせる人間がいることは、家族経営の大きな利点です。他の家族経営の会社との付き合いも非常に重要です。私たちが世界中で取引している会社の多くが家族経営なのは、会社の方針や動き方をお互いに熟知しているから。家族経営の会社はだいたいどこも同じ原則で動いているので、一緒に仕事をしていても話が早いのです」 そう語るのは、グレンファークラスのジョージ・グラントだ。混乱を避けるために、あらかじめ明確にしておいたほうがいいだろう。グラントという姓は同じだが、グレンファークラスのグラント家と、グレンフィディックのグラント家に姻戚関係はない。 グレンファークラス蒸溜所は、1865年にジョン・グラントによって512英ポンドで買収された。国立公文書館の資料で計算すると、現在の貨幣価値なら30,274.15英ポンドという値段である。これは隣にあったレチャーリック農場で、熟練工1人が約2,560日分の日当として受け取る金額だ。 ジョン・グラントは畜牛農家として有名な存在で、当時すでにグレンリベットにも農場を所有していた。蒸溜所は1889年に息子のジョージへと相続されたが、そのジョージは残念ながらすぐに他界してしま、蒸溜所はジョージの息子たちに引き継がれることになる。息子たちの名前もジョンとジョージだった。グレンファークラスの歴史には、ジョンとジョージがたくさん登場する。グラント家は、蒸溜所と名前を受け継ぐことに執心しているのだろう。そんな訳で、2番目のジョージが蒸溜所を相続し、弟のジョンと一緒にグレンファークラス=グレンリベット・ディスティリング社を設立した。 やがてグラント家は、リースに住むパティソン兄弟と提携関係を結ぶことになった。ウイスキーの歴史に詳しい人なら、きっとパティソン兄弟の悪名に聞き覚えがあるだろう。彼らのウイスキービジネスはかなり乱暴なものだった。マーケティングの力量はあったのかもしれないが、大掛かりな不正に手を染めてウイスキー業界全体に壊滅的な打撃を与えてしまう。良質なウイスキーを生産していた蒸溜所が、彼らと一緒に倒産してしまった。 だが進取の精神に富んだグラント一族は、この苦境においても挫けることがなかった。たゆまぬ努力と決意によって、グレンファークラスを有力なウイスキーブランドに押し上げたのだ。ジョージは2人の息子をもうけたが、彼らの名前もジョンとジョージである(もう驚かない)。3番目のジョージが蒸溜所を引き継ぎ、米国の禁酒法や第2次世界大戦などの困難な時代も乗り越えて事業を存続させた。やがてウイスキーづくりはジョン・LS・グラント、さらにはジョージ・S・グラントへと引き継がれた。現在はこの2人がグレンファークラスの舵取りをしている。 当代のジョージ・グラントは、一族の事業がたどった変遷を振り返って次のように語る。 「平坦な道のりではありませんでした。1950年には法律が変わって糖化と蒸溜を同じ日にできるようになり、1970年代には蒸溜所にビジターセンターを開設しました。ガスが引かれたのも大きな変化でしたね。父と祖父が経営した過去2代の時期に、大きな変化を経験しました」 家族経営でリーズナブルな価格を維持 家族経営という点では共通するグレンフィディックとグレンファークラスだが、ビジネスのやり方や一族の歴史もそれぞれに異なる。ウイスキーづくりのアプローチはそれぞれがユニークであるが、所有する創業家にとって理想的な経営を続けている点では同じだ。ジョージ・グラントは語る。 「今でもスチルの加熱は直火式で、オロロソシェリー樽で熟成することにこだわっています。樽詰めした日から売りに出される日まで、すべてのウイスキーを自社で保有しているのがグレンファークラスの特徴。これはウイスキー業界では珍しいことで、会社にも大きな恩恵をもたらしてくれます。結局のところ、私たちの目標はお客様にウイスキーを買っていただき、気に入ってまたリピートしていただくこと。懐を気にしてウイスキーを買うのをためらうような価格設定にはしたくありませんからね」 グレンファークラスの価格がリーズナブルに維持されているのは、まさに家族経営のおかげなのだとジョージ・グラントは言う。
「グレンファークラス40年をとってみても、他のブランドなら数千ポンドはするような商品でしょう。そんな高額なウイスキーをわざわざ買って飲むのには、相当に特殊な理由が必要になります。でもグレンファークラスなら千ポンドを大幅に下回る価格設定になっています。 これなら一度買った人がまたリピートして、他の40年もののウイスキーを買うよりもずっとお手軽に楽しめるはずです」 グレンフィディックとウィリアム・グラント&サンズは、蒸溜所の建設や買収によってブランドの勢力を拡大してきた。そのおかげで、今日では世界屈指の売上を誇るスコッチウイスキーメーカーになっている。ウィリアム・グラント&サンズが傘下にさまざまな他のブランドを抱えているのに対し、グレンファークラスはただ静かに独立を保っている。誰にも所有されていないし、他のブランドを買収したこともない。 特にスコットランドでは絶大な人気を誇るグレンファークラスだが、会社の規模はこぢんまりとしたものだ。パティソン兄弟との提携で失敗した教訓から、他社との提携を一切やめてしまった経緯も理解できる。そのおかげで、完全に独立した資本でウイスキーづくりを続ける希少な企業になったのである。 「家族経営を守ることは大切です。1回売れたことで満足するような商品は、そもそも売る必要がありませんから。おかげさまで売り上げも好調で、世界100カ国に輸出してまだまだ成長を続けています。家族経営で独立を守るのは、アイデンティティーを明確にして世界中で信頼していただけるブランドを維持するということ。一般消費者だけでなく、業界内のさまざまな人たちにも敬意を持たれるブランドであることが大切なのです」 ふたつのグラント家は、ビジネスの拡大という点ではまったく方向性を異にしているようにも見える。それでも共に成功して、将来も家族経営を続けると断言している点では共通点している。家族経営の利点は、ブランドに伝統的なイメージを付与してくれるところだ。スコッチウイスキーには、しばしば神話や伝説のような物語がつきまとう。そこに創業家の物語があれば、ブランドにも特別な価値が生まれるのだ。特に世界で新規市場を開拓する際には、そのような物語が重要になる。 伝統が強固であるほど、未来の世代に伝えるべき価値も大きくなる。この価値こそが、新しい挑戦の糧にもなるのだ。家族経営を維持することで、大きな成功を手にしたふたつのグラント家。スコッチウイスキーの人気が世界で高まっていくなか、彼らの目指す未来にこれからも注目したい。
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